第2話 スキップした先に

目覚めるたびに、世界が違っていた。


灰田小吉は、気づけば知らない部屋で眠っていた。

壁に飾られた家族写真。どこかで見たような顔が、自分の隣にいる。

名前が思い出せない。年齢も、関係性も。


キッチンから、知らない女性の声が聞こえる。


「パパ、朝ごはんできたよー」


パパ?

まさか、自分のことを……?



見知らぬ家族と暮らしていた。妻らしき人はかつての会社の後輩で、子供はたぶん妻との子だろう。その子が「パパ、運動会来てね」と言ったかと思えば、

次にはもう、大学の卒業式のスーツ姿だった。


灰田は目眩に似た混乱のなかで、ゆっくりと理解する。


──自分は、人生をスキップしている。


広告だけじゃない。誰かが自分に“紹介”したすべてが、記憶から抜け落ちている。

愛されたことも、愛したことも、何もかも覚えていない。

情報を消しすぎて、思い出も消えていた。



妻が死んだ。


そう言われた。

入院していたとも聞いた。

最期の言葉も、手を握った瞬間も──何ひとつ、思い出せなかった。


泣き方が、わからなかった。



老いた灰田は、老人ホームのテレビの前に座っていた。

顔も名前も思い出せない孫たちに囲まれながら、薄い笑顔を浮かべていた。


そのとき、画面に流れたCMがあった。半世紀以上ぶりのCM。おそらく100錠の効果が切れたのだろう。しかしもうどうでもいいことだ。


『未来への旅路、あなたも乗ってみませんか?』

――時空間移動実験、被験者募集中


「バカバカしい」と誰かが笑うなか、灰田だけが画面の左下を見ていた。


※本実験では、時空間移動に伴い身体が逆成長する場合があります。


その注釈だけが、強烈に目に焼きついた。


「……戻れるのか?」


まるで、あのときスキップした**“再生ボタン”**が、そこにあるような気がした。



施設を出て、実験場へ向かった。

手続きを終えると、白衣のスタッフが言った。


「万が一、身体的に若返ると記憶もいくつか消えるものもあれば、微かに残るものもあります。何か記録しておきたいことはありますか? 競馬や競輪などの雑誌を用意してますが」


なるほど。ギャンブルか。

灰田は少し迷ってから、右腕の袖をまくった。

インクの針を皮膚に刺す。

手が震えながらも、言葉を刻んだ。


『人生を取り戻したくば、自分を殺せ』



目を閉じた。


瞬間、世界が裏返った。


風景がぐるりと反転し、重力が引きちぎられるような感覚。

次に目を開けたとき、灰田の身体は若返っていた。

関節が軽く、肌には張りが戻っている。


鏡を見た。そこには、二十八歳の頃の自分がいた。


だが、同時に──もう一人、同じ顔をした若い男がいた。


『人生を取り戻したくば、自分を殺せ』


目の前の自分は薬を手にしようとしている。

広告に疲れ切った灰田小吉がそこにいた。



灰田は、そっと近づいた。

そして、何も言わずに、その首に手をかけた。


すべてが終わったとき、右腕の刺青がかすかに滲んでいた。

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