第6話:微かな光

小説:栄華の果て


第六話:微かな光


明子の声は、電話越しでも緊張しているのが分かった。俺は、何を話せばいいのか分からず、ただ黙って彼女の次の言葉を待った。


「龍さん…今、どこにいるの? 大丈夫…じゃないわよね」

彼女の声には、怒りよりも心配の色が濃く滲んでいた。その事実に、俺の凍りついた心が少しだけ溶けるのを感じた。


「…ああ、家にいる。大丈夫じゃ、ないな」

掠れた声で、やっとそれだけを答えるのが精一杯だった。


しばらくの沈黙の後、明子が切り出した。

「あなたのチームの…監督さんから連絡があったの。あなたのこと、とても心配していたわ。そして…私も、ずっと考えていた。私に、何かできることはないかって」


監督が? そして、明子が? 俺の知らないところで、俺のために動いてくれている人たちがいた。その事実は、暗闇の中に差し込む一筋の光のように感じられた。


「…明子、すまない。本当に、すまない…」

言葉にならない嗚咽が、喉の奥から込み上げてくる。プライドも何もかもかなぐり捨て、俺は子供のように泣きじゃくっていた。電話の向こうで、明子が息を呑む気配がした。


「龍さん…今から、あなたのところへ行ってもいい?」

彼女の言葉は、震えていた。俺は、頷くことしかできなかった。


どれくらいの時間が経っただろうか。インターホンが鳴り、ドアを開けると、そこには明子が立っていた。以前よりも少し痩せたように見えたが、その瞳には、以前と変わらない、強い意志の光が宿っていた。


彼女は、部屋の惨状を一瞥したが、何も言わずに中へ入ってきた。そして、床に散らばる脅迫状の束と空の薬袋を見て、小さく息を吐いた。


「…やっぱり、そうだったのね」

彼女の声は、静かだった。責めるでもなく、ただ事実を受け止めているようだった。


俺は、明子の前に膝をつき、すべてを話した。肩の痛み、成績の不振、孤独感、そして佐伯からの誘惑。薬物を使った時の高揚感と、それがもたらした偽りの成功。そして、今のこの絶望的な状況を。話している間、明子は黙って俺の言葉に耳を傾けていた。時折、痛ましそうに眉をひそめるだけで、決して俺を遮ることはなかった。


すべてを話し終えると、俺は顔を上げることができなかった。彼女に軽蔑されるだろう。見捨てられるだろう。そう覚悟していた。


しかし、明子は静かに俺の前にしゃがみ込み、震える俺の手をそっと握った。

「辛かったわね…龍さん。一人で、ずっと苦しんでたのね」

その温かい言葉と手の感触に、俺の目から再び涙が溢れ出した。


「でも、もう一人じゃないわ。私がいる。そして、あなたのことを心配している人たちがいる」

明子は、そう言って力強く微笑んだ。その笑顔は、まるで聖母のように優しく、そして強かった。


「もちろん、簡単なことじゃない。これから、もっと辛いことがあるかもしれない。でも、逃げないで。一緒に戦いましょう。あなたの人生を、取り戻すために」


彼女の言葉は、俺の心の奥底に眠っていた、ほんのわずかな希望の種に水を注ぐようだった。そうだ、まだ終わりじゃない。まだ、やり直せるかもしれない。


その夜、明子は俺のそばを離れなかった。悪夢にうなされる俺の手を握りしめ、優しく背中をさすってくれた。久しぶりに、ほんの少しだけ、安らかな眠りにつくことができたような気がした。


翌朝、明子は俺に一枚のメモを渡した。そこには、依存症治療の専門クリニックの名前と連絡先が書かれていた。

「監督さんが、調べてくれたの。とても評判の良いところだって」


俺は、そのメモをじっと見つめた。正直、怖い。自分の弱さと向き合うことが、何よりも怖い。しかし、明子の真剣な眼差しと、彼女が差し伸べてくれた手を見ていると、逃げるわけにはいかないと思った。


「…分かった。行ってみる」

俺は、そう呟いた。それは、小さな、しかし確かな一歩だった。


脅迫してきた男たちのことは、まだ解決していない。チームとの関係も、どうなるか分からない。失ったものはあまりにも大きい。だが、今、俺の隣には明子がいる。そして、俺自身の中にも、ほんのわずかだが、再生への意志が芽生え始めていた。


栄華の果てに見えたのは、絶望だけではなかった。暗闇が深ければ深いほど、小さな光もまた、強く輝くのかもしれない。俺の戦いは、まだ始まったばかりだ。


(続く)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る