第5話:転落の序章

小説:栄華の果て


第五話:転落の序章


脅迫状は、一度きりではなかった。数日おきに、より具体的な内容のものがポストに投函されるようになった。「お前の秘密をマスコミに売る」「警察に通報する」――その文面は、俺の精神を確実に蝕んでいった。佐伯は完全に姿をくらまし、連絡もつかなくなっていた。俺は完全に孤立無援だった。


薬物のストックは、底を突きかけていた。禁断症状はますます激しくなり、練習どころか日常生活すらままならない。幻覚や幻聴に悩まされ、常に誰かに見られているような強迫観念に苛まれる。夜は悪夢にうなされ、昼間は現実から逃避するように、ただぼんやりと過ごす時間が増えた。


妻の明子との関係は、完全に冷え切っていた。彼女は俺の異様な行動に耐えきれず、実家に戻ってしまった。リビングには、彼女が置いていった書き置きが一枚だけ残されていた。「もう、あなたについていけません。少し、距離を置きましょう」――その短い言葉が、俺の胸に重くのしかかる。


チームからも、ついに最後通牒が突きつけられた。

「神宮寺、もう限界だ。お前にはしばらく休養してもらう。そして、専門機関のカウンセリングを受けてほしい」

監督の言葉は、非情な宣告のように響いた。それは事実上の戦力外通告に等しかった。俺は、何も言い返すことができなかった。ただ、呆然と監督の顔を見つめるだけだった。


自宅に戻り、がらんとしたリビングで一人、途方に暮れる。かつて栄光を掴んだ男の成れの果てが、これか。酒を煽り、薬物の禁断症状による震えを誤魔化そうとするが、効果はない。テーブルの上には、空になった薬の袋と、脅迫状の束が散乱している。


その時、インターホンが鳴った。こんな時間に誰だろうか。警戒しながらドアスコープを覗くと、そこには見知らぬ男が二人立っていた。黒いスーツに身を包み、鋭い目つきをしている。明らかに、普通の訪問者ではない。


「神宮寺龍さんですね。少し、お話があります」

ドアを開けると、男たちは有無を言わさず部屋に入ってきた。彼らは、俺が薬物を使用している証拠を掴んでいると告げ、口止め料として法外な金額を要求してきた。脅迫状の送り主は、彼らだったのだ。


「払えなければ、どうなるか分かっていますね? あなたの輝かしいキャリアも、すべて終わりですよ」

男の低い声が、部屋に響く。俺には、もう抵抗する力も、金も残っていなかった。


絶望的な状況の中、ふと、佐伯の言葉が蘇る。「神宮寺さんのためなら、用意しますから」――あの時の彼の笑顔は、今となっては悪魔の微笑みにしか見えない。俺は、まんまと彼の罠にはめられたのだ。彼にとって俺は、ただの金蔓であり、利用価値がなくなれば捨てられる駒に過ぎなかった。


男たちが帰った後、俺は床に崩れ落ちた。涙も出なかった。ただ、底知れぬ虚無感と絶望感が、全身を支配していた。窓の外は、いつの間にか暗くなっていた。都会の喧騒が、遠くで響いている。その音は、もはや俺とは何の関係もない、別世界の出来事のように感じられた。


「…もう、終わりだ」


呟いた言葉は、誰にも届かない。かつて熱狂的な歓声に包まれた男は、今、誰にも知られず、ひっそりと破滅の淵に立たされている。栄華を極めたバッターが、自ら招いた三振。それは、あまりにも呆気なく、そして惨めな幕切れだった。


その時、スマートフォンの着信音が静寂を破った。画面には、見慣れない番号が表示されている。恐る恐る電話に出ると、聞き覚えのある、しかし今はどこか冷たく響く声が聞こえてきた。


「神宮寺さん? …久しぶり。明子よ」


妻からの電話だった。その声に、ほんのわずかな希望の光が差し込んだような気がした。だが、それはあまりにもか細く、いつ消えてしまうか分からない、儚い光だった。


(続く)

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