第2話:甘い囁き
小説:栄華の果て
第二話:甘い囁き
翌日の試合も、結果は散々だった。チャンスで凡退し、守備では若い頃なら難なく捕れたはずの打球に追いつけない。スタンドからのため息は、もはやヤジよりも深く胸に突き刺さる。試合後の監督の言葉は、昨日よりも厳しさを増していた。
「神宮寺、お前、本当にこのままでいいのか? 気持ちが見えんぞ」
気持ちなら、誰よりもある。だが、体が、そして何よりも心が、かつての自分を思い出せないのだ。ロッカールームの隅で、俺は一人、冷え切ったペットボトルの水を喉に流し込んだ。周囲の喧騒が、まるで分厚い壁の向こう側のように遠く聞こえる。
その夜、またしても古傷が疼き始めた。処方された痛み止めは、もはや気休めにもならない。ベッドの上で何度も寝返りを打つが、痛みと焦燥感で眠りにつくことなどできそうもなかった。壁にかけられた、かつてのホームラン王のタイトルを獲得したシーズンのユニフォームが、暗闇の中でぼんやりと浮かび上がって見える。あの頃の俺は、どこへ行ってしまったんだ。
スマートフォンが不意に震えた。画面に表示されたのは、先日飲んだ元チームメイト、佐伯(さえき)の名前だった。
「神宮寺さん、今大丈夫っスか? ちょっと近くまで来てるんですけど」
何かを察したかのようなタイミング。断ろうかと思ったが、この耐え難い孤独と痛みから一時でも逃れられるなら、という弱い心が顔を覗かせた。
「ああ、大丈夫だ」
しばらくして、佐伯が俺のマンションの部屋に現れた。現役時代と変わらない、人懐っこい笑顔を浮かべているが、その目の奥にはどこか得体の知れない光が宿っているように見えた。
「神宮寺さん、やっぱり顔色悪いっスね。あの話、覚えてます?」
佐伯はそう言うと、ジャケットの内ポケットから小さなジッパー付きの袋を取り出した。中には、白い粉末が入っている。俺の眉がピクリと動いたのを、佐伯は見逃さなかった。
「いや、これは…ヤバいものじゃないっスよ。海外じゃ、トップアスリートも使ってる、まあ、一種のサプリみたいなもんです。集中力が増して、痛みが嘘みたいに消える。神宮寺さんの肩の痛みにも、きっと効きますって」
サプリ、ね。そんな都合のいいものがあるものか。俺の心の中の理性が警鐘を鳴らす。だが、佐伯の言葉は、まるで悪魔の囁きのように甘く響いた。
「…本当に、大丈夫なのか?」
声が掠れていた。
「もちろんスよ! 俺も使ってますけど、調子いいっスもん。ちょっとだけ、試してみません? すぐに分かりますから」
佐伯はそう言うと、手慣れた様子で粉末を少量、テーブルに広げた小さな紙の上に取り分けた。
俺は、その白い粉末を睨みつけた。これが、俺を今の苦しみから解放してくれるというのか? あの、かつての輝きを取り戻させてくれるというのか? 倫理観、プライド、恐怖心。様々な感情が頭の中で渦巻く。だが、それらを押し殺すように、あの日の「カキーン!」という快音が、脳内で強烈にリフレインした。
「…少しだけなら」
俺の口から、そんな言葉がこぼれ落ちていた。自分でも信じられないほど、あっさりと。
佐伯はニヤリと笑うと、慣れた手つきでそれを吸引できるように整えた。
「どうぞ、神宮寺さん。新しい世界の扉が開きますよ」
目を閉じる。一瞬の躊躇。だが、もう後戻りはできないような気がした。
息を吸い込むと同時に、鼻腔をツンと刺激する感覚。そして、次の瞬間――。
世界が変わった。
ズキズキとした肩の痛みは、まるで最初から存在しなかったかのように霧散していた。頭の中を覆っていた靄が晴れ、視界がクリアになる。身体の奥底から、今まで感じたことのないような力が湧き上がってくるのを感じた。
「どうスか?」
佐伯の声が、どこか遠くから聞こえる。
俺は、ゆっくりと目を開けた。鏡に映る自分の瞳が、爛々と輝いている。
「…すごいな、これ」
思わず、笑みがこぼれた。久しぶりに感じる、万能感。これなら、やれる。まだ、俺は終わっていない。
脳裏に、満員のスタンドが鮮明に蘇る。バットを構える自分。そして、ボールが吸い込まれるようにミートする、あの瞬間。
カキーン!
今度こそ、あの音が現実になる。そんな確信にも似た高揚感が、俺の全身を支配していた。佐伯の満足げな顔が、視界の隅で歪んで見えた。
(続く)
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