栄華の果て!
志乃原七海
第1話残響
小説:栄華の果て
第一話:残響
バットが空を切る。乾いた、虚しい音だった。かつてスタンドを揺るがした快音とは似ても似つかない。ため息ともヤジともつかない声が、遠くから鼓膜を震わせる。ヘルメットのつばを深く押し下げ、俺――神宮寺(じんぐうじ)龍(りゅう)は、俯きながらベンチへと戻った。三振。またか。ここ最近、この光景がデジャヴのように繰り返されている。
「ドンマイ、神宮寺さん」
若いチームメイトが気遣わしげに声をかけてくるが、その声すらどこか白々しく聞こえてしまう。ドンマイなわけがあるか。俺は、かつて首位打者とホームラン王を同時に獲得し、「球界の至宝」とまで呼ばれた男だ。ファンは俺の一振りに熱狂し、俺が打席に立てば球場の空気が変わった。あの頃は、バットにボールが当たれば、面白いように外野スタンドへ吸い込まれていった。
カキーン!
あの金属音。脳髄を直接揺さぶるような、痺れるほどの快感。打球が描く美しい放物線。沸騰するスタンド。俺は、あの瞬間のために生きていた。アドレナリンが全身を駆け巡り、世界が俺を中心に回っているような、全能感にも似た感覚。あれこそが、俺にとってのドラッグだったのかもしれない。
だが、今はどうだ。
試合後のシャワールーム。湯気で曇った鏡に映る自分の姿は、ひどくみすぼらしかった。肩の古傷がズキズキと痛む。雨の日や、少し冷えただけでも疼き出す厄介な代物だ。かつては痛みなど気合でねじ伏せられた。しかし、三十路をとうに過ぎ、体のあちこちにガタがきている今、その痛みは容赦なく俺の集中力を削いでいく。
「神宮寺、ちょっといいか」
監督に呼ばれた。いつもの、当たり障りのない、しかし核心を突くような言葉が続くのだろう。「焦るな」「自分を信じろ」「きっかけ一つだ」。もう聞き飽きた。俺だって、分かっている。分かっているから、もどかしい。
かつては報道陣に囲まれ、フラッシュの嵐だったロッカールームも、今は閑散としている。若いスター選手たちが、メディアの寵児だ。俺の周りには、同情と諦めが混じったような、重苦しい沈黙だけが漂っている。人気がなくなった、というより、期待されなくなった、という方が正しいのかもしれない。
一人暮らしのタワーマンションに帰っても、静寂が俺を迎えるだけだった。窓の外には、きらびやかな都会の夜景が広がっているが、その光は俺の心には届かない。広いリビングに、俺の孤独だけがぽつんと取り残されている。
テーブルの上には、数種類の錠剤。医師から処方された痛み止めだ。気休めにしかならないことは分かっている。だが、飲まないよりはマシだった。喉の奥に押し込み、水で流し込む。じわりと痛みが和らぐような気はするが、心の奥底で疼く、あの栄光への渇望は少しも満たされない。
「くそっ……」
思わず声が漏れた。何かが足りない。圧倒的に。あの、脳天を突き抜けるような快感。孤独を忘れさせてくれる高揚感。静まり返ったこの部屋で、俺はかつての残響を追い求めていた。バットがボールを捉える、あの完璧な瞬間の音を。そして、それがもたらす至福を。
ふと、数日前の夜、昔のチームメイトと飲んだ時の会話が蘇る。
「なあ、神宮寺。最近、キツそうだな。ちょっと、いいモンあるんだけど…試してみるか?」
あの時、俺は曖昧に笑って誤魔化した。だが、その言葉は、心のどこかに小さな棘のように引っかかっていた。
古傷が、またズキリと痛んだ。それは身体の痛みか、それとも、失われた栄光が突き立てる心の痛みなのか。俺は、深く、重いため息をついた。夜は、まだ始まったばかりだ。そして、この耐え難い静寂と孤独は、いつまで続くのだろうか。
(続く)
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