第一部
第1話
いつもであれば騒がしい道場も、朝一番は静寂に包まれていた。
道場の中央に立った富永は、ひとり木刀を持って素振りを行っていた。素振りを一〇〇〇回。それが富永が自分に科している毎日の稽古だった。
木刀が空気を裂くような鋭い音が道場内に響き渡っている。富永は雑念を捨て、無心で振り続けた。木刀を振り下ろすたびに、心の中で見えない何かを切り裂いているような気がしていた。それが恐怖なのか、不安なのか、それとも別の何かなのか。自分でも答えは出せなかった。
一〇〇〇回の素振りを終えた頃には、汗で床が濡れていた。素振りを終えた富永は、床を雑巾できれいに掃除し、道場を後にした。
ロッカールームでシャワーを浴び、アイロンの掛かったシャツとスラックスに着替える。
時刻は午前六時。ようやく街が目覚め出した頃だった。
きょうの勤務は当直だった。午前八時までは休憩時間となっている。大抵の人間は休憩時間を仮眠時間としているが、富永はその時間で朝の稽古を行っていた。
朝食を取るために向かったのは、二十四時間営業の牛丼屋だった。朝であればメニューに定食があるので、重宝している店だった。いつもと同じ席に座り、朝定食を注文する。焼き鮭に小鉢が付いた定食だ。ゆっくりと朝食を済ませて、そろそろ戻ろうかと思っていたところで、ポケットの中で携帯電話が震えた。ディスプレイを見ると、そこには職場の電話番号が表示されていた。
富永は手早く勘定を済ませて店の外に出ると、携帯電話の通話ボタンを押した。
「はい、富永です」
「お疲れ様です、高橋です」
電話の相手は同じ職場の後輩である、高橋佐智子だった。心なしか、声が緊張しているような気がした。
「いまどちらですか」
「朝飯を食べたところだ。どうかしたのか」
「富永さん……緊急です。とにかく、すぐに戻ってきてください!」
「わかった。すぐに戻る」
電話越しの高橋の声は、明らかに震えていた。いつもはどんな緊急事態でも冷静な彼女が、いまは言葉を選ぶ余裕もないような状態だった。何か大変なことが起きている。富永は背筋に嫌な汗をかきながら新宿中央署へと急いだ。
朝とは思えないほどに、署内は騒然としていた。富永とすれ違うようにして、署内に常駐している警視庁機動捜査隊と自動車警ら隊の隊員たちが、駆け足で出て行く。署内に響く足音と、無線機から聞こえてくる雑音が混ざり合って聞こえてきた。断片的に聞こえてくる無線からは『……容疑者……逃走中……応援を要請する』などといった会話が聞き取れ、富永は胸に鈍いざわめきを感じていた。
階段を一段抜かしで駆け上ると、二階にある刑事課の部屋へと飛び込んだ。
刑事課の部屋は、しんと静まり返っていた。普段であれば、当直の刑事たちが数人詰めており、雑談などが飛び交っているはずだが、いまは高橋佐智子がひとりいるだけで、部屋の中が凍りついたかのように静まり返っている。
「高橋、なにがあった」
「あ、富永さん」
富永が声を掛けると高橋は青い顔をして、こちらに助けを求めるような眼を向けてきた。普段であれば冷静沈着な高橋が、手に持ったメモ帳を震えながら握りしめているのを見て、富永は何か大変なことが起きているのだと直感した。
「数分前に、管内の公園西交番で襲撃事件が発生したと緊急通報が入りました」
「交番襲撃だと」
「はい。交番で当直勤務をしていた地域課の二名が死亡。犯人は逃亡中とのことです」
高橋の声は震えている。
その言葉を聞いた時、富永は一瞬パニックになりかけた。交番が襲われた――現職の警察官が二人も殺された。富永は脳裏でその言葉を反芻するたび、胸の奥で軋むような痛みを覚えていた。警官として経験を積んできたつもりだったが、こんな事件は刑事人生で初めてのことだった。
「現場には、誰か向かったのか」
なんとか冷静さを取り戻した富永は状況把握に務める。
「はい。二川さんと岡部さんが」
「わかった。係長と課長に連絡はしたか」
「あ、いえ。まだしていません」
「そっちは俺がやっておく。高橋は情報を集めておけ」
「わかりました」
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