偽りの正義に君はただ微笑む

大隅 スミヲ

序章

プロローグ

 陽の光がまぶしかった。芝生の上に倒れるように転がった大海ひろみは浅い呼吸を繰り返しながら、青空を見つめていた。地上では風が吹いていないが、雲の流れは速かった。もし自分に翼が生えていたならば、あの大空を飛んでみたいと思うだろうか。そんなことを考えながら口を大きく開けて、必死に空気を肺に送り込む作業を繰り返していた。

 少し離れたところで何か重いものが地面に落とされたような音が聞こえた。首を捻ってそちらに目を向けると、全身ダークブルーのプロテクターで固められた格好の男が前のめりに倒れていた。

 総重量約八キログラムの機動隊のフル装備、それと同じくらいの重さの大きな盾を背負った状態でグランドを走り続けるという、もはや拷問ともいえる体力勝負の授業は脱落者多数で終わりを迎えることとなった。

「無理だ……吐きそう……」

 前のめりに倒れている男が呟くように言った。声でそれが同期生の誰かであるということがわかったが、ヘルメットのシールドが曇ってしまっていたため、その顔を見ることはできなかった。

「おい、誰が休んでいいと言った」

 少し離れたところから怒鳴り声が聞こえてくる。

 その声を聞いた瞬間、大海は反射的に起き上がろうとしたが、四肢に力が入らなく、立つことはできなかった。まるで水中にいるかのように息が苦しかった。どんなに呼吸をしようとしても空気が肺に入ってこない。喉が笛のような甲高い音を立てる。口の中はカラカラに乾き、水を欲しているはずなのに吐き気がしていた。

「どうした?」

 すぐ近くで声が聞こえた。今度は怒鳴り声ではなく、どこか心配しているような声だった。大海の視界いっぱいに中年の男の顔が現れた。髪を短く刈り込んだ、眉の太い男だ。その男は荒木といい、大海の担当教官でもあった。

 東京都府中市にある警視庁警察学校。そこは警察官採用試験に合格した者だけが通うことのできる学校であり、警察学校を卒業した者だけが警察官になることができた。大海はその警察学校の学生であり、担当教官である荒木の教場で警察官になるための訓練を日々受けていた。

 警察学校での訓練はとても厳しく、警察官採用試験に合格しても、警察学校で落第していく人間も少なくはなかった。授業について行けずに自ら退学していく者、教官から引導を渡されて強制的に退学となる者、いつの間にか逃げるようにして去っていく者など、警察学校からいなくなる理由は様々であるが、ここで落脱すれば警察官になれないということだけは確かだった。

「しっかりしろ。おいお前ら、装備を脱がせるのを手伝え」

 荒木の声が耳元で聞こえる。しかし聞こえてくるのは声だけであり、大海の視界はだんだんと狭くなっていった。

 顔に冷たい何かが触れた。目を開けると、大勢の人間の顔があり、みんな安堵の表情を浮かべているのがわかった。何があったのだろうか。よくわからないまま、大海は起き上がろうとした。

「もう少し休んでいろ」

 そう言ったのは、荒木だった。いつものように厳しい声ではなく、どこか優しさのある声のように思えた。

 桜の木の下の木陰だった。入学した時は満開の花びらだったが、いまは葉桜へと変わっている。体が軽かった。ダークブルーの機動隊プロテクターはすべて外されており、水で冷やされたタオルが首のところに掛けられていた。

「ほら、遅れるな。手を抜くな。犯人は待ってくれたりしないんだぞ」

 すぐ近くで荒木が怒鳴り声をあげる。

 グラウンドでは機動隊プロテクターを着け、盾を頭上に掲げながら走る生徒たちの姿があった。

 先ほどまで、自分もあの中にいて、彼らと一緒に走っていたはずだ。時間が飛んでいた。どうやら、自分は倒れて気を失っていたようだ。大海はそれに気づき、そのことを恥じた。

「すいません、教官」

「謝ることじゃないさ。少し休んだら、戻れ」

 荒木はまっすぐ校庭の方を見つめながら言うと立ち上がり、他の生徒たちが走るグラウンドへと自分も走っていった。


 なぜ今になって、あの時のことを思い出しているのか大海にはわからなかった。

 交番にあるトイレの個室。警察学校を卒業し、晴れて警察官になることができた大海は地域課の制服警官としてこの交番に配属された。これから待っているのは、警察官としての順風満帆な人生。そう思っていたが、現実はそんなに甘くはなかった。

「おれは警察官として失格だ」

 大海は、声に出してつぶやいた。そして、腰のベルトからリボルバー式の拳銃を取り出すと、口を開けてその銃口をゆっくりと咥える。

 思い残すことは何もなかった。こんな辛い人生であれば、辞めてしまったほうが楽だ。

 引き金に指を掛けた大海は、ぎゅっと目を閉じた。

 もっと楽しい人生が待っていると思っていたのにな。

 乾いた音が交番の中に響いた。それが大海の聞いた最後の音だった。

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