第2話
先日の雨によって湿った土は柔らかく、錆びた鉄材が濡れたのに似た不快なにおいを放っていた。
じっとりとした雨のにおいと気配はまだ残留し、喉の奥に血が溜まった時のような気持ちの悪さと近しい感覚が、それと仲良く手を繋いで鼻の奥から主張してくる。
シャベルの先端が地面に突き刺さった事に安堵した根古谷は、この下に埋まっているのかも分からない目的の事を考えて、大きな溜息を吐いた。
「何で山林の奥でこんな事してるんだったかな……」
「手が止まってますよお先生!」
木々が好き勝手に伸ばした枝葉で遮られた空を見上げながら呟けば、向かいで同じくシャベルを持った銀杏田が声をかけてくる。
鬱蒼とした山林の中に似つかわしくない弾んだ響きに呼応するように、一切の躊躇いなしに土を掘り返すその姿に、根古谷は半笑いでぎっくり腰をやりそうで怖いのだと言葉を返した。
「それは由々しき事態ですね! 勿論先生が腰に痛烈な魔女の一撃を受けて歩行困難な情けない姿になろうとも俺が担いで運んであげるわけですが、そもそも掘り返し作業は俺に全部任せて先生は呼びに行くまで車で休んでいてくれていいんですよ? というか俺は最初からそう言ってるのに心配だからってついてきたのは先生なんですからね、心配性だなあ〜、俺だって一人でお使いくらいできるのになあ!」
ざくざくぐちゃぐちゃべちゃりがつんざくざくどさり。
息継ぎの少ない上にとにかく早口という、独特な銀杏田の喋り方に倣うように素早く地面が掘られ、足元の穴が深く大きく広がっていく。
時折シャベルが硬いものにぶつかって嫌な音を立てたが、銀杏田はそんなもの気にしないとばかりに楽しそうに掘った土を後方に投げ捨て、力を込めて掘り進めた。
その様子を暫く眺め、お言葉に甘える事にして穴から出ると、突き立てたシャベルに寄りかかる姿勢で休憩する事にした。
僅かに額に浮いた汗を手の甲で拭い、もう一度空を見上げる。
木々に遮られて殆ど青色なんて見えない、自然によって作られた天井のようなそれを見上げながら、根古谷は声に出さずに呟いた。
自分達は何故、こんな山林の奥で埋まっているのかも分からない死体を掘り返そうとしているのか。
01
発端は、当たり前だが依頼人からの要請だった。
「……はあ、ええと、うん、はい、悪いけど、もう一度最初から説明してもらえるかな?」
つい先日の大改装がもう遠い昔のように感じられるほど、私物が増えて生活感も馴染んでしまった事務所で、根古谷は困惑の声を上げた。
ぎらぎらとした内装、雑然とした室内の中で唯一落ち着いた印象の応接テーブルを挟んで座るのは、一人の女学生だ。
白と紺の普遍的な色とデザインをしたセーラー服の合服、その長袖に包まれた腕をさすりながら、少女——
「あたしが殺した友達が帰ってきてくれないから、埋めた場所を確認してきてほしくって」
おどおどと力ない響きの割に、絶対に主張を曲げない意思の透けるその声を聞いて、根古谷は自分の後ろで興味なさそうに長髪の枝毛を探している銀杏田に視線を向ける。
口パクで「た・す・け・て」と言ったつもりが、果たして彼にどう伝わったのか。
銀杏田は顔に喜色の笑みを浮かべると、両手を大きく広げて仰々しい演説のような姿勢を取ると、不安そうに肩を縮こまらせている茶臼山に向かって言った。
「お友達を殺したのはいつですか? ああ、理由や手段なんてものはどうでもいいので喋らなくていいですよ、人には人の乳酸菌とか言いますし人それぞれの殺意や友情の形がありますからね、俺は友達いないからよく分からないですけど! でもほら、そろそろ夏も終わるとはいえ腐敗は勝手に進むじゃないですか。先生の忠実な下僕であり信奉者でありその傍らで助手の真似事をやらせていただいている俺としてもまさか腐って蛆虫が大渋滞していそうな死体を先生の視界に入れるなんてできないし、そもそも掘り返すなんて腰に負担の大きな作業はぎっくり腰持ちの先生にはとてもとても! いえ勿論肉体労働はこの銀杏田並木(偽名)が担わせていただくわけですが、先生は根が小心者もとい善良なので自分だけのうのうと座って待つなんて事ができずほぼ確実に自分もやるって言い出すと思うんですよ優しいですよねえ!」
「え、あ、ぇと、はいっ?」
立て板に水の如く一気に捲し立てる銀杏田に、茶臼山が目を丸くして口から裏返った声を上げる。
セーラー服に包まれた細い肩がびくりと跳ねたのも見えて、根古谷は同情したくなった。
「違う違う違う、銀杏田くん。そうじゃないから、待って。依頼人の子も困ってるから」
「日頃から隙あらば先生という至高の存在を人の世に布教しようと思っているばかりに口が勝手に……でも隙を見せる方が悪いと思いませんか?」
「依頼人の隙を狙うのはやめよう? というか日々そんな事考えてるの? あっ、置き去りにしてごめんね、話の続きに戻るとして、ええと……私は自首一択しかないって思うんだけど、」
「じ、自首はしたくないです!」
「よし! じゃあ、それは一先ず置いておこうか!」
根古谷としては一切横に置いて置きたくない話題だったが、自首を促すのも通報をするのも後からできる事だと頭を切り替えて、横道に逸れていく話の軌道修正を試みた。
それまで困惑したように根古谷と銀杏田のやりとりを見ていた茶臼山は、慌てて声を差し込んだ後に萎縮したように俯くと、スカートの上で両手を握りながら改めて口を開いた。
「自首はしたくないです。あたしが刑務所に入っちゃったら、うたちゃん、帰ってくる場所が分からなくなっちゃうと思うから」
何を言っているのかさっぱりで、小指の爪の甘皮くらいも理解できない。
根古谷はサングラスの下で目を閉じ、茶臼山がこれ以上萎縮しないように気を付けながら小さく溜息を吐いた。かける言葉は慎重に選ぶ必要があるが、正直頭は真っ白だった。
背中や首の裏側、脇の下にどっと汗が噴き出す感覚がある。汗染みも心配だが、加齢臭とか大丈夫かな。若い女の子って特にそういうの敏感だよな。そんなどうでもいいような、結構大事なような思考が頭を掠めていく。
後ろで銀杏田が急に部屋用消臭スプレーを取り出すのではないか。被害妄想で丸くなりかけていた背筋を正し、茶臼山に向き直る。
そうして時間をかけて聞き取りをした内容は次の通りだ。
うたちゃんとは
茶臼山は雅楽川と夏休みの後半に一緒にプールに行く約束をしていたらしいが、連絡が取れなくなった為に家を訪ねたところ、応対した彼女の弟によって不在が発覚した。
雅楽川の家庭環境は他人が口出しをしにくい複雑なものであり、詳細は省くが両親も弟も彼女の不在を意に介さず、捜索願も出していないらしい。
学校側も一生徒の家庭事情に必要以上に踏み込むつもりなどなく、教師は相談に行った茶臼山にどうせ家出だからいずれ帰ってくるだろうと言い、犬猫を追い払うように手を振って帰らせた。
そうして消沈した茶臼山は、両親の知り合いが以前に根古谷という探偵に世話になったと話していた事を思い出し、藁にも縋る思いで事務所の扉を叩いたらしい。勿論それは比喩表現で、実際は震える指でインターフォンを押したわけだが。
「ご家族や学校の認識は行方不明、という事でいいんだよね?」
「表向きには、そうなるんだと思います」
なんとか声を絞り出した根古谷の確認に、茶臼山は小さな声で是を返した。
表向きも何も、世間は雅楽川の不在を若者の非行と捉えていて、茶臼山の話を聞いて根古谷が受けた印象もそれと変わらない。
複雑な家庭環境の少女が夏休みの最中に家を飛び出して行方不明となり、家族も気に留めていない中で友人の茶臼山だけが行方を案じている。
至って普通、と言ってしまうのは不謹慎だが、よくある家出人の捜索と考えれば、そこまでおかしなところは何もない。ありふれて平凡な事件と言って良いものだった。
唯一、依頼人である茶臼山が「自分が友達を殺した」と言っている点さえ除けば。
「あたしがうたちゃんを殺して埋めたのに、うたちゃん全然帰ってきてくれなくって、だから、」
「もう一度ちゃんと殺せば、今度こそ帰ってきてくれる筈だと思って」
「だから、埋めた死体を掘り返して、うたちゃんを連れて帰ってきてほしいんです」
「お願いします」
そんな支離滅裂な事を言われ、根古谷が背景に宇宙を広げている間に銀杏田が詳細はまた今度と話をまとめてしまい、茶臼山は帰っていった。
暫く思考が戻ってこられずにいる根古谷の口に、銀杏田が包装を取り払った棒付きキャンディを捩じ込んでから、
「取り敢えず裏付け取りましょうか! あっ死体掘り返すなんて俺初めてなんですけど何が必要ですかねホームセンターで色々買ってくるのでリストアップしないとですよね楽しみだなあ! 穴を掘るのは俺一人でやるので死体が見つかって運び出す時だけ二人の共同作業ですよ先生!」
ウキウキの笑顔でスキップしながら、事務所の奥へと引っ込んでいった。
死体の何がそんなに嬉しくて楽しみなんだろうか、あの自称助手は。オカルト的なものが趣味とはいえ、現実の死体に少しくらいは怖気付いたりしないのだろうか。
それはさて置き、とても珍しい事に自分から甘味を許した銀杏田の態度に、これは真偽がどうであれ死体掘りに連れて行かれるのだろうな、と覚悟した根古谷は溜息混じりに呟いた。
「私だってそんな経験ないから、誤解しないようにね?」
02
そういったわけで根古谷と銀杏田は、茶臼山が雅楽川を埋めたという山林の奥にシャベル片手にやってきたわけだ。
どういうわけなのかは今もって納得しきれてていないが、裏取りをしている内に掘りに行く日程が決まってしまったのだから仕方がない。
言っている事の意味は不明だが、友人を案じて声を震わせる少女の切実さは本物だと根古谷には受け取れた。
そして、それを断り通報や心療内科への案内を強く勧められるほど、根古谷は押しが強くない。
最終的には折れる事を見透かしていたのだろう銀杏田によって、茶臼山の再訪時には二人分のシャベルとブルーシート、軍手やタオルに安全靴などの用意、レンタカーの手配まで済んでいたのだから、逃げ道など最初からなかったような気もする。
勿論、まだ学生の茶臼山から正式な依頼を受けるわけにはいかない。
保護者への連絡を本人も強く拒否したので、あくまでも相談を聞くだけという体で、この掘り返し作業は慈善事業のオプションとなる。
そんなわけでかれこれ数時間、男二人で地面を掘って、広く深くなっていく穴を見ながら根古谷は首を傾げた。
「結構掘ったと思うけど全然出てこないから、やっぱり埋まっていないんじゃないかな」
「そうですねえ」
土を掻き分ける音に重なって、銀杏田の相槌が返る。
「銀杏田くんが手筈を整えてくれたから、ついうっかり流れでここまで来てしまったわけだけど」
「先生はもう少し主体性持った方いいと思いますよ!」
「そもそも、車の免許も持たない子供がどうやってこんなところに友達の死体を運んできて、しかも男二人で数時間かけて掘っても出てこないくらいの深さに埋める事ができるんだって話だよね」
「あっ、今俺のアドバイスを無視しましたね? ふふ、いいんですよ、俺はそうやって先生が自分の道を選び取る事に喜びを感じる敬虔なキモオタ兼助手なので! 成長しましたね、先生……」
「うん、そういうノリは引き続き無視するからね? やっぱり自首、いや殺したって話自体が虚言とかあの子の何らかの精神面の問題に繋がる気がするし、帰ったら適切な機関を案内してあげるくらいが精々だと思うんだけど、銀杏田くんはどう思う?」
「いいんじゃないですかねえ……」
素っ気ない返答に、おや、と思う。
自分の助手を自称し、本名を始めとしたあらゆるパーソナルデータが不明の男こと銀杏田並木は、一を言えば百くらい返してくるような口の止まらない男だというのが根古谷の認識だったわけだが、随分と返し方にキレがない。
体調でも悪いのか。そうでなくとも、鬱蒼と暗い山林の奥で穴を掘り死体を探すなんて行為は、心身共に疲弊して当然だ。
雨のせいで多少は柔らかくなっていたとはいえ、それも表層の数センチがいいところだろう。樹木の根だって広い範囲に広がるものだし、掘っていく内に石にぶつかる事も少なくない。加えて穴から土を外に出すのもかなりの重労働だ。
普段から止まると死ぬのかと聞きたくなるほどに動き回り、足裏がアクセルから離れない呪いの車に乗っているようなテンションで過ごしている銀杏田といえども、体力の限界はあるという事だ。
数少ない人間的で正常な部分を垣間見たような気持ちになって、根古谷は今や銀杏田がしゃがみ込めば頭まで隠れてしまうくらいに掘り進められた穴の中を覗き込んだ。
「……銀杏田くん?」
果たして、銀杏田は真白い服が土に汚れるのも構わず、穴の底に体を丸めて目を閉じていた。
シャベルを抱き込むようにして眠る姿に、危ないなあと思いながら伸ばした手を、つい口元に翳す。軍手越しじゃ呼吸も何も分からないだろうと、自分に突っ込みを入れたが、微かな寝息が聞こえてきたので一安心した。
今この場所に第三者がいたら、どう考えても根古谷が銀杏田を埋めようとしている図にしか見えないだろう。
誰もいない場所で本当に良かった。恐々としながら穴から銀杏田を引き摺り出す。
大して小柄なわけでもないのにやけに軽く感じて、けれど体重を聞くのは同性でもハラスメントだろうと思いながら、汚れた銀杏田を背負う。
意識のない人間を背負った経験は何度かあったが、あまりの軽さに薄寒さを覚えた。
⬜︎
掘った穴には軽く土を落とすだけにして、原状回復は諦めた。
放置したとして、あんな場所に踏み入る人間は自殺志願者か良からぬものを隠したい輩だろうから、正常な人間に迷惑が掛からなければ放置してもいいかもしれない。
疲労のせいか、倫理観に悖る思考を転がしながら銀杏田を背負って車に戻り、汚れ防止の為にブルーシートを後部座席に敷いて、土まみれの安全靴を脱がせた銀杏田を寝かせる。
寝言もなく、微かな寝息を立てるだけの姿はあどけなく、軽さも相俟って子供のように思えてくる。
けれども即座に普段の言動がオーバーラップして、根古谷は首を振った。
本名も何も明かさないまま助手を名乗って居座り、人の事務所を改装して業態も変え、知らないところでホームページを作成しただけでなく迷惑なポップアップ広告まで出している、そんな男は子供ではない。
行動力だけなら全能感に溢れた子供に匹敵するかもしれないが、少なくともあどけない子供は役所の手続きなんてしない。
銀杏田の口に長い髪の毛が食われているのを指で取り除いてやってから、根古谷は運転席に座った。疲労と空腹を誤魔化す為にキャラメルを口に放り込んで、シートベルトを締める。
「さて、どうしたものかな」
シートに身を預け、両腕を組んで首を横に傾けたが、体を揺らしたところで思考がまとまるわけでもない。取り敢えず現状をスマホのメモ帳アプリに入力しておく事にする。
「まず、雅楽川という少女が姿を消した」
これは事実。
「その不在について、彼女の家族は何の関心も抱いていない」
これも事実。
「相談に来た茶臼山さんは、雅楽川さんを心から案じている」
この気持ちも根古谷の感触では嘘ではない。
けれど、自分が友人を殺して埋めたと言っている。
殺したのに帰ってこないからもう一度ちゃんと殺したい、その為に掘り返してきてほしいと言っている。
「これがよく分からないから困るんだよな……」
殺したと言うならその殺害方法は何か、聞いても茶臼山の答えは要領を得なかった。
刺したのか、突き落としたのか、絞め殺したのか、順番に聞いても何も答えられないのだから、彼女の認知に何らかの問題があると考えた方が納得できる。
加えて、埋めたと教えられた場所も、茶臼山の居住地からでは車を使わないと来る事が難しい山林だった。
そんな場所に免許を持たない年齢の子供が、恐らく自分と大して変わらない友人の死体を運搬してくるのに加え、深く穴を掘り埋めるなんていうのは現実的ではない。
協力した大人がいたのだと仮定して、それなら掘り返すのもその相手に頼めば済む話だ。少なくとも完全な第三者の根古谷たちに露見して通報されるリスクは生まれないだろう。
というかそもそもの話、死体を山中に埋めるという事自体、合理性がないと根古谷は思う。
この国は大部分が山林であると根古谷の知識にはあるが、その殆どは人工林だとも聞く。つまり誰かしらの管理下にあるわけで、四六時中の監視などはないとしても、その事実は死体を埋めるのに限らず何をするにも見過ごせないリスクが伴うものだ。
犯罪を推奨するつもりなどこれっぽっちもないが、少なくとも死体を埋めるという行為は割に合わない。
「それと、殺したのに帰ってこないって話もよく分からないし……殺して埋めたらそりゃ帰ってこなくないかな?」
ううん、と声を上げて唸る。以前にそういった胡乱な話を聞いたような気もするが、興味がなかったので頭に残っていない。
「まあ、こういうのは銀杏田くんに聞けば分かるだろうし、今は考えなくてもいいか」
根古谷のオカルト的知識は九割が銀杏田の口から吹き込まれているものなので、調べるよりも聞いた方が早い。
自分のこういうところが良くないというか、自称助手に生活を掌握されている所以なのだろう。
遠くを見たくなったが、人間とは一度覚えた楽をそう簡単には手放せない生き物だ。いずれ銀杏田がどこかにふらりと消えたとして、その後の事はその時に考えればいい。
そう思考をまとめ、スマホを車内備え付けのスマホホルダーに置いて、根古谷は車のエンジンをかけた。
⬜︎
暫く車を走らせていると、「起床!」と大きな声を上げた銀杏田が体を起こすのがルームミラーに映った。
起床時からアクが強いのは何なんだと思っていると、信号待ちの間に後部座席から助手席へと無理矢理移動してくる。
レンタカーの座席が汚れるし、何より危険だからそのまま後ろにいてくれと言う暇すら与えられず、車内のクリーニング費用はどれくらいが相場だろうかと、一瞬気が遠くなった。
それにしても、猫を液体に例える場合があるとはよく聞くが、銀杏田の動きはそういった猫の仕草によく似ていた。
「尻尾振り回して走り回ってるところは犬みたいなのにね……」
「何の話ですか?」
「銀杏田くんって猫と犬ならどっちが似合うかなと思って」
「先生が望むならこの銀杏田並木、猫でも犬でも兎でも何にでもなってみせますよお! どんな毛玉がお好みですか⁉︎」
「一番望むのはもう少し静かで話が通じる普通の人間なんだけどな……ところで体調大丈夫?」
信号が青に変わったのを確認して発進させつつ聞けば、銀杏田はシートベルトに押さえ付けられた体を器用にくねらせつつ笑った。
「いやあ、穴の中にいたら昔を思い出して懐かしくなってしまって! 暗くて狭くて湿った場所って安心するからつい寝ちゃうんですけど先生に恥ずかしいところ見せちゃったなあ!」
「それどういう記憶? もしかして私は今、銀杏田くんがちゃんと母親から生まれていそうな事に安心した方がいいタイミング?」
「やだなあ、もう! 俺の個人情報はいくら先生といえどそう易々と開示できませんよお! 知りたければもう少し好感度ゲージを貯めてください。俺からじゃなく先生から俺へのですよ。先生はまだ俺を知れるほど俺に興味がありません」
「個人情報の保護が徹底してて良い事だね」
銀杏田が言う通りに興味のない返しをしながら、カーナビの案内に従って車を走らせる。
助手席の銀杏田は、両手を頬に添えて機嫌を損ねた少女のような仕草を取ってから、ふと思い出したように声を上げた。
「そういえば、あの女の子の学校って結構なお嬢様学校ですよね。制服がヤバい金額で売られてるのを見ちゃって俺恐怖しちゃいましたよ所詮はただの布なのに! まあそれは置いておいて、こんな胡散臭い事務所の人間がどうやって関係者に話なんて聞けたんですか?」
とんでもない言い草に、思わずブレーキとアクセルを踏み間違えるところだった。
「うちの胡散臭さを数倍増しにしたの、銀杏田くんだからね? 今更だからこれ以上は言わないけど、反省してね?」
「ふふ、銀杏田イヤーは地獄耳で先生のどんな声も聞き漏らさないと評判ですが俺に都合の悪い事は意図的にミュートしますよ! それで? どうやって話を聞いてきたんですか?」
やっぱり踏み間違えてその辺に突っ込んで車ごと大破してやろうかな。
そんな多方面への迷惑が凄まじい血迷った考えをなんとか追い払ってから、脱力した気持ちのまま言葉を返す。
「君ね……いや、もういいや。あの子の学校、うちの妹が通っているところだったから、ちょっと色々聞いてもらえるようにお願いしたんだよ。因みに本人からは銀杏田くんの写真を報酬にねだられたから、事後報告だけどごめんね」
「先生の妹さんというと俺の顔ファンで、鎖帷子……じゃなかったアルミ武装でもない、えーと俺の写真を使用した無許可製造缶バッジ敷き詰め痛バッグを持ち歩く強肩の女子高生の」
「いたばっぐ? かおふぁん? その辺の単語は分からないけど、これで新作が作れるって大喜びして色々調べてきてくれたよ」
「ハラスメント事案ですよ先生! いくら俺に肖像権も基本的人権もないからって! せめて断りを入れて撮影してくれたらいくらでも顔を隠せたのに! おかめ面とかで!」
「話の流れで自分から捨てないようにしてね、基本的人権。あと多分だけど、妹はおかめ面でも喜ぶと思うよ」
「先生を推す同担は大歓迎ですけど俺推しは素直に嫌なんですよお……分かりますか? 自分に向けて視線を注がれる事に対するこの落ち着かなさと苦しい気持ち」
「私が普段、銀杏田くんから受けてるものと同じじゃないかな?」
珍しく動揺した様子で声を上げる銀杏田をスルーして、カーナビが次の信号を左折するように機械音声を上げるのに従ってウインカーを出す。
もうすぐ車通りの多い道に入る。話は事務所に戻ってからでいいだろう。
「運転に集中したいから、急に大きな声とか出さないでね」
隣から「はあい」と素直な返事をもらってから、根古谷は口を閉じて前を見た。
03
死んだ人間が戻ってくるという噂がある。
発祥がどこであるかは不明で、けれども実しやかに囁かれている。
そういった噂話というものは、人の口を介す内に尾鰭が付いて少しずつ形を歪めていくものだが、死者の帰還という本質だけは変わらなかった。
噂は学生を中心に、主にSNSの閉鎖的なコミュニティで広まっている。
それを知った子供たちが思う事は、そう難しくはない。
不慮の事故で失われた家族との再会を願う子供もいれば、いじめの果てに命を落とした子供の報復を恐れる愚か者もいた。
興味ないと嘯く子供も聞き耳を立て、そうして噂話は広まり続ける。
大人の耳に入らないように、閉ざされた子供だけのコミュニティの中。
地面の下に根を張る樹木のように、深く、広く、その先端を伸ばしていく。
「でもこの噂には致命的な欠陥があって、何かって言うとですね! 自分が殺した相手しか帰ってきてくれないんだそうですよ! 怖いですねえ!」
茶臼山の『殺したのに帰ってこない』という発言の意味についての説明を、そんな軽い調子の言葉で切った銀杏田は、ご清聴ありがとうございましたと言わんばかりに一礼をしてみせた。
事務所の一角がまるで何かの舞台にされたような錯覚を受ける。スポットライトの光すら見えるような気持ちで、根古谷はやる気のない拍手を送ってからキャラメル味のポップコーンのカップを傾けて口に流し込んだ。
頬張ったポップコーンを噛み締めて嚥下した後、根本的な疑問に首を傾げる。
「自分が人を殺したなんて基本的に黙っていると思うんだけど、どういった経緯で露見して噂になるんだろう」
「そういうのはオカルトの定石というか整合性なんて取れないものなんですよねえ全員死んだり未帰還なのに詳細な噂が流れる話は先生の隠している大量の甘味の在庫の何倍もあるんです! インパクト重視で一瞬でも視聴者の肝を冷やす事ができれば多少の粗は放置されがちだし世に氾濫する怖い話なんて大抵がそんなものですからね本当に心底許し難いですよ俺は本物が見たいのに!」
最近、気に食わない設定の作品でも読んだのだろうか。
半ば八つ当たり気味に拳を震わせ熱弁する銀杏田を無視して、空になったポップコーンのカップを潰してゴミ箱に放り込む。
根古谷の一連の動作の内に落ち着きを取り戻したらしい銀杏田が、気を取り直して続きを話し始める。
「そもそもの話ですけど、殺しただけで帰ってくるなら介護に疲れたご家族が見殺しにした高齢者なんかも高速匍匐前進とかで盆を待たずに帰省しちゃいますよ。だから何かの工程を踏む必要があると思うんですけどねえ」
高速匍匐前進をする高齢者の図が頭に浮かぶが、放置されて孤独に亡くなっただろうご老人に死後もそんな無体を強いるのは良くない。
せめて精霊馬に乗せてあげられると良いのだが、銀杏田のような若者にはそういった知識がない可能性もある。茄子か胡瓜のお裾分けをいただく機会があったら作ってあげる事にしよう。
自分の思考が横道に向かって直進するのを食い止める為、取り出したクッキー缶のテープを剥がしながら根古谷は疑問の声を上げた。
「銀杏田くんのオカルトネットワークにもそういった情報は入ってきてないんだね?」
「えっ俺だって知らない事はたくさんありますよ! 因みに銀杏田ネットワークの電波はいつでもバリサン全国どこからでも接続が可能で先生の寝室の天井裏にも三人目の銀杏田並木が定位置として潜んでいます」
「その話ってどこまで本当?」
「ふふ! 俺はいつでも全力で本気ですけど八割は適当を言ってます! というわけで口から出まかせの説明会を続けても?」
「どうぞどうぞ。……私も君のテンションに慣れてきたところあるよね」
口の中でクッキーが割れ砕ける音を耳で拾い上げつつ、先を促す。
八割は適当と言っているが、残り二割の必要な話に関しては正しく適切な言葉を差し出してくるのが銀杏田という男だ。根古谷が甘い事を差し引いても、その実績がある為にあまり強く注意できない。
クッキー缶の中身を順調に征服し胃袋へと送っている内に、ふと思い出す事があったので手と咀嚼を止める。
何かを察したらしい銀杏田が速やかに水の入ったコップを握らせ、背中をさすってきた。気遣いは有り難いが、勿論誤解だ。
「餅を喉に詰まらせた高齢者を見るような目はしないでいいからね? ただちょっと、そういえば今の話って私の学生時代もあったなって……あれ、もしかしてずっとある噂なのかな。銀杏田くんの学生時代はどうだった? ていうか学校行ってた?」
「そうですねえ、あれは俺がまだ五十歳かそこらの幼体の頃……」
もしかして猫方式で年齢の計算をしているんだろうか。
疑問には思ったが、追求したところではぐらかされるのが目に見えているので無視をして、記憶の箱を漁ってみる。
しかし困った事に当時好きだった菓子の名前や、奔放で自由人な両親に振り回された思い出ばかりがこぼれ落ちてきて、肝心の噂話にまで辿り着かない。
戸棚の暗がりに手を突っ込んで何も見ずに掻き回しているような気持ちになりながら、順番に一つ一つ確認していく。
「……あ、そうだ、思い出した」
そうしてようやく目当ての記憶に辿り着いたと声を漏らしたところで、根古谷のスマホが震動した。
雅楽川の遺体が見つかった。
昇降口の片隅に置かれた大きなボストンバッグの中、全身を七つに切断された彼女の亡骸が詰め込まれていた。
切断、あるいはその前に何らかの要因により死亡したと考えるのが普通だろうが、死因は不明とされている。
死体の切断面は綺麗なもので、恐らくは死亡後に解体されたものと考えられているが、断定できる情報はない。
死者は何も語らない。ゆえにその亡骸との対話を試みる事で事件の解決を図るものだが、雅楽川の死亡については何の答えも得られなかったらしい。
それは、死亡から最低でも半月は経過している筈なのにも関わらず、腐敗が進んでいなかったせいか。
胃の中に汚れていない水と、雅楽川のものとされる長い黒髪が詰まっていたせいか。
それとも、杭を突き刺された口蓋が、切り取られた舌の断面が、発見時にまだ血を流していたせいか。
ともかく、死人に口なしとはよく言ったものだ。
□
我が妹ながら、どうやってこの情報を集めてきたのだろうか。
のんべんだらりとして、一向に本名すら明かさない怪しい助手に好き勝手されている自分なんかよりも、よほど探偵業に向いている。
末恐ろしい気持ちと自身への情けない感情を綯交ぜにしながら、根古谷は机を挟んだ向こうで床に掃除機をかけていた銀杏田にスマホのカメラを向けた。
「ひえ、魂抜かれる」
「いつの時代の人の発言かな、それ」
本当に珍しく狼狽える銀杏田に構わず写真を撮り、そのまま妹に宛てて送信する。
消してくださいよお、と言ってくるのを聞き流して、根古谷はスマホをポケットに捩じ込んだ。
「茶臼山さんのご家族から、娘からの相談は忘れてください、虚言についても他言無用で、ってお詫びと圧の強い手紙が届いてたよ。結局親御さんにバレてるわけだけど、うちとしては穏便に済んで一安心だね」
「ああ〜そうなんですね! まあ自分で殺し直す前にバラバラ遺体が見つかって休校になるわ友達として警察に事情聴取されるわでそれどころじゃないでしょうし、今回はレンタカーや備品代でマイナス計上ですねえ」
「絶対に掘りに行く必要なんてなかったと思うけど、まあ銀杏田くんの寝顔写真を妹が喜んでいたから私の気持ちとしてはプラス計上かな」
「うええ」
露骨に顔を曇らせた銀杏田に、食べるかと指先で摘み上げたチョコの包みを見せてやる。
下唇を噛んで拒否されたので、仕方なく自分の口に放り入れてから、根古谷は「結局今回も何も解決しなかったね」と声を漏らした。
銀杏田はぱしぱしと目を瞬かせてから、くふ、と気味の悪い笑いをこぼして、ステップを踏むような足取りで器用に事務所内をくるくると踊るように回り、ついでに掃除機も定位置に戻してから、子供のように笑った。
「だから何度も言ってるじゃないですか、先生。依頼人が納得すればそこがゴールなんですよお。考えようによっては物凄く割りに合わなくてでも上手くやれば一発当てる事もできるボロい商売ってやつですね!」
「はいはい。いつか訴えられたら、その時は君の事を警察に突き出して私は首括るからね?」
04
だん、
がん、
ごん、
がんっ、
べちゃ、
がんっ、
がんっ、
だんっ!
がんっ!
音がする。
家の玄関ドアを叩き続けている。
うたちゃんが帰ってきたんだ、と一人きりの家の中であたしは思った。
結局あたしが殺せたわけじゃないけど、うたちゃんは自分で死んじゃったけど、あたしの知らないところで知らない誰かに体をめちゃくちゃにされちゃったけど、それでもあたしのところに帰ってきてくれたんだ。
何が効いたのかな。
どのお呪いがうたちゃんに帰り道を教えてくれたのかな。
うたちゃんの最低なパパとママと弟を滅多刺しにしたのが良かったのかな、それともお家を燃やしてあげたのが良かったかな。
こっそり持ち帰ってきた、うたちゃんの髪の毛を毎日抱いて寝たからかな。
ううん、きっとうたちゃんの髪の毛を食べたからだ。
取り返そうと思ってあたしのところに帰ってきてくれたんだ。
うたちゃん、あたしの事大嫌いだったから。
うたちゃんを殴ったり馬鹿にしたりする家族なんかより、何でもしてあげようとするあたしの事の方が嫌いで嫌いでとにかく嫌いで憎くて恨めしかったから。
髪の毛の一本も、爪の一欠片も、あたしに持ち逃げされるなんて我慢できないんだ。
嬉しい!
嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい!
あたしもね、いつも卑屈な態度であたしからの優しさを受け入れながら、妬ましそうに睨み付けてくるうたちゃんの事が大嫌いで、殺してあげたかったから、両想いで本当に嬉しい!
噂なんて信じてなかったけど、本当に帰ってきてくれて嬉しい!
今日はあたしのパパもママもいないから、二人でゆっくりお話しようね。
あたしもうたちゃんもお互いの事が大嫌いだけど、死んだら全部リセットされて、今度こそ仲良くなれると思うの。
だから、帰ってきてくれて本当に本当に本当に嬉しい!
逸る気持ちをなんとか落ち着かせて、玄関に向かう。
指が震えて上手く鍵を回せない。
早く、早く、早く開けないとうたちゃんが諦めていなくなっちゃう!
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インターネットの片隅に、女子学生が自宅で七分割された死体となって発見されたというニュースが上がった。
先日遺体が見つかったばかりの女子学生と同じ殺され方、その女子学生の家は何者かの放火によって全焼。焼け跡から家族三人の遺体が見つかっており、警察は事件の関連を——。
そこまで読んで興味を失った銀杏田は、全文を読まずにブラウザを閉じた。
椅子の上で膝を抱えた姿勢のまま、いそいそと財布を手に出て行こうとする根古谷の背中に向かって声をかける。
「そういえば先生〜」
「何かな銀杏田くん、私これから数量限定販売のロールケーキを買いに行くから質問は一つまででお願いしたいんだけど」
「あは、そんな事言われると一時間くらい足止めしたくなっちゃうなあ今普通に営業時間ですよ先生! まあ俺はご機嫌なので今日くらいは先生の暴食を見逃してあげますし留守番も任せてくださいね! それで質問なんですけど先生この前噂話のくだりで何かを思い出したとか言ってたじゃないですか。あれって結局何だったんですか?」
「はいはいご厚情痛み入ります。えー……何だったかな……ああ、そうそう。私が学生の頃も同じ噂があったって話したと思うんだけど、その時も確か双子のお兄さんをバラバラにして殺しちゃった子がいて、自分が殺したから兄は帰ってくる筈なんだって言いながら兄の生首を抱えて一人で暮らしていたんだよ。何となくその時と状況が近いような気がしたってだけの話だね」
顎に指を添え、考え込むような仕草で記憶の糸を手繰り寄せながら話す根古谷の横顔をじっと見てから、銀杏田は「へえ、そうなんですね!」と笑った。
根古谷が、興味ないなら聞かなくても良かったんじゃないか、と言いたげな顔をしていたが、にんまりと笑ってその言葉を封殺する。
「まあ、茶臼山さんには悪いけど今回の件は異常者の犯行だろうし、そもそも殺した人間が帰ってくるなんてあるわけないっていうのが今も昔も私の意見だよ。……もう行ってもいいかな? 因みに整理券式らしいから、今日の敗北は明日の事務所休業に繋がるんだけど」
「俺は別にいいですけど先生のお財布はいいって言ってくれないと思うので何とか勝利を持ち帰ってきてくださいね〜」
そわそわと落ち着かない様子の根古谷を解放し、送り出してから、銀杏田はもう一度PCに意識を向けた。
今度はニュースを見るのではなく、メールボックスを開き、届いているいくつかの問い合わせメールに目を通す。これは要らない、これは後で確認、これはスパムメールだから開かずに削除、とマウスをクリックしていく。
そうして確認していった中に一つ、件名が未設定の受信メールがある事に気が付いた。
こういったものは大抵が迷惑メールフォルダに振り分けられるわけだが、銀杏田は迷わずそのメールを開封する。
添付された画像ファイルと画面に踊る文字をざっと見て、それから短く返信のメールを書いた。
ご依頼、お受けします。
ビジネスの定型文も何も存在しない失礼極まりないメールの送信を終え、銀杏田はPCをシャットダウンし、椅子から降りてぐっと背中を伸ばした。
次の仕事も勝手に決めたし、根古谷が帰ってくるまでに事務所の掃除をして、茶の用意でもしておこう。
根古谷が机の上に置いたままにしていた茶臼山の両親からの手紙を、もう死んでしまった人間の事などどうでもいいとばかりにシュレッダーに食わせてから、銀杏田は事務所の奥へと引っ込んだ。
『 』 -名称未設定- 楠田たすく @em_kstsk
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