『   』 -名称未設定-

楠田たすく

第1話

 取り付けられた約束の時間のぴったり五分前に、その男はやって来た。

 痩せ気味の体躯を見るからに上等なスーツに包み、白髪の一本も存在を許されていなさそうな真っ黒の髪を寸分の隙なく整え、スクエアフレームの眼鏡の奥の目も同じく真っ黒い。

 上背が高く手足も長く、それが余計に痩躯を強調しているようだった。

 そんな、どうにも神経質そうな印象の男は、背中にまるで鉄の棒を刺しているみたいに真っ直ぐで長い体を折り曲げるようにしてソファに預けると、これまでの印象全てを払拭する朗らかな声で言った。


「家の前にですね、死体が捨ててあるんですよ」



   01


「そうだ、テコ入れをしましょう」

 始まりは、どこぞの旅客鉄道が随分と前から実施しているキャンペーンのような一言だった。

 先日受けた依頼の報告書をまとめていた根古谷ねごやは、軽い思い付きの調子でそんな事を口にした、自分の自称助手である男、銀杏田いちょうだの方へと顔を向けて聞いた。

「テコ入れって何に? 銀杏田くんの存在にかな」

「違いますよお! 先生の城であるこの事務所の在り方にです!」

 ろくでもない突飛な話だろうと想像は付いたが、話を聞かない事には進展も終わりもない事は銀杏田とのこれまでの付き合いで身に染みていたので、根古谷は仕方なく話を進めるよう水を向ける。

 事務所——根古谷が所長として営んでいる探偵事務所——の入口横の壁にかけたカレンダーの角度を調整していた銀杏田は、控えめに差し込まれた嫌味など綺麗に吹き飛ばし、首の後ろで一つにまとめた髪の毛を犬の尻尾よろしく振り回し、針金のように細い全身を揺らしながら話し始めた。

「俺が先生の事をそれはもう深く敬愛していてこの世の神というかもう世界は先生が創り出したものでこの地上に存在するのは先生、俺、その他だと思っているのはご存じの通りなわけですが!」

「いや、全然ちっとも存じ上げていないし、できれば知りたくなかったよ。可能なら時間を巻き戻して君が話し始めないようにしたいくらいには」

 くねくねと身を捩るように話す銀杏田に、内心で距離を取る。今日の彼は白い服を着ているし、どこか田舎の畑に放してやるのがいいかもしれないなどと、某巨大掲示板の投稿をまとめたサイトで読んだ怪異の話が頭をよぎった。

「あは、先生は照れ屋だなあ!」

「多分、同じ事を言えば十人中十人がドン引くと思うけど」

「でもそんなところが魅力なわけですよ」

「私の事を敬愛しているならできればちゃんと話は聞いてほしいと思うんだけど、もしかして結構贅沢なお願いをしてる?」

「金言としていずれ背中に彫ってきます」

「分かった、話を続けていいから絶対やめてね」

 真剣さの宿った目を向けられて、根古谷は早々に折れる事を選択した。本当にやられたらたまったものではない。

 許可を得た銀杏田は、嬉しそうに頷くと、殆ど息継ぎもなしに一気に捲し立てた。

「先生の魅力に世界がまだ気付いていない事が問題なんです。これは地球規模の損失と言っても過言ではなく一秒でも早く先生という尊き存在を世に知らしめるのが俺の使命だとさえ思うのに先生は昨日も今日もこんな狭くて日当たりの悪い事務所でペット探しや不倫調査なんかの報告をまとめているだけ! このままではあらゆる企業の株も大暴落、日本沈没や世界恐慌も秒読みですよ!」

 何言ってるんだこいつ、と口から出なかっただけマシだった。

 築年数が古く、色の褪せた壁紙や年季の入ったソファなどに囲まれ、手洗いは廊下に出た先の階段踊り場にあるという昭和の遺物のようなビルに事務所を構えているのは偏に根古谷の財布事情によるものだが、敬愛しているのならばその辺も受け入れてほしいものだ。いや、要求すべきはそこではない。

「ペット探しも不倫調査も正式な依頼だし、その報酬で私はご飯をいただけているからね。それに、狭くて日当たりの悪い事務所が不満なら他所へ行ってくれて構わないというかできれば行ってほしいし、銀杏田くんの中の私がどういう存在なのか聞けば聞くほど怖いから、ちょっと止まってもらってもいいかな」

 浴びせられた、理解したくない言葉の奔流をなんとか受け流してから言えば、銀杏田は薄暗い室内に落ちてきた太陽もここまで眩しくはないだろうといった笑みを浮かべ、くねる動きを止めた。

「俺にとっての先生の話、聞きます? 最低でも三日くらい欲しい大長編ですけど」

「いらないからテコ入れの話に戻って」

「はあい。話を戻しますけど、先生の存在を広く世に知らせる為に、まずはこの事務所の在り方からテコ入れが必要だと、先生の助手であり信奉者である俺は思った次第です!」

「そっか、そっか。でも私は根っからの小市民だし、大卒の学歴を持っている程度の面白みのない人間だからね、目立ったりはいらないかな」

「大丈夫ですよ、先生。俺、同担は歓迎する方なんで!」

 何がどう大丈夫なのか。少なくとも会話は不成立で何も大丈夫ではないな、と思う根古谷を置き去りにして、銀杏田は狭い事務所の中をまるでバレエでも舞うかのようにくるくると回り出す。

 長い尻尾髪が首に絡まって息の根ごと止まってくれたりしないかな、と不謹慎な事を考えながら、手元の報告書に見つけた誤字に赤を入れていると、不意に視界が暗くなった。

「今のようにうだつの上がらない探偵業をしている先生にも良さがありますけど、俺的にはもっと華々しく! 面白く! 更に高みを目指してほしいので!」

 大丈夫ですよ、寝ている間に俺が全部整えておきますからね。

 なんて、今度こそ本当に何も大丈夫ではない銀杏田の声を聞いたのを最後に、根古谷の意識は途切れた。


   □


 根古谷が目を覚ますと、知らない内装の部屋のソファの上に寝かされていた。

 意識を失う前までいた筈の、古臭くも落ち着く自分の事務所ではなく、大分前にインターネットの海で見かけた美容サロンの写真に似ている。

 きらきらというよりびかびかギラギラとして目に痛い白色の光で満ちた空間に、根古谷はいた。

 眩しさに痛む目を細めながら体を起こす。

 くすんだ色合いがラグジュアリーな輝きへと差し替えられた事で、覚醒したての頭が混乱を訴えて頭痛を発症する。

「あっ、起きました? おはようございます! もうお昼過ぎですけどね!」

 扉の開く音がして、香ばしい珈琲の香りと共に銀杏田が顔を見せた。大きく弾んだ声が寝起きの耳に痛く、思わず手の平で両耳を塞ぐ。

 意識を失う直前に見たのと同じ服と髪型をしているが、あれから一体どれくらいの時間が経過したのだろう。というか、あれは一体何だったのだろう。

「ふふん。先生が今考えている事を、この助手はまるっとお見通しですよ!」

「ネタ的に心配な言い方はともかくとして、銀杏田くんのそういうところは話が早くて助かるよ」

 悪戯が成功した子供のように楽しげに笑いながら、銀杏田が珈琲を差し出してくる。それを受け取って砂糖を探していると、スティックシュガーが数本差し出された。

 受け取って紙の包装を破りながら、続けていいよ、と促す。

「なんと! 新装開店の記念すべき依頼人第一号はこの後すぐの登場です!」

「何もまるっと見通せていないね……」

 自信満々で言う銀杏田に肩を落としながらスプーンを探す。素早くマドラーがカップに突き込まれ、銀杏田の手によってくるくると掻き混ぜられる。

 じゃりじゃりと砂糖が掻き回される音を聞きながら、根古谷は一本ずつ指を立てながら言った。

「銀杏田くんが滅茶苦茶な事は分かっているつもりなんだけどね」

「光栄です!」

「褒めてないからね? いや本当に褒めてないよ? それで、取り敢えず今知りたい事だけど、まずここがどこか、あれから何日経過したか、ついでに私の口座残高がマイナスになったり何か良くないところに借入をしていないかと、それから、……え? この後すぐ登場?」

「はい!」

 ピンポーン、あるいはリンゴーン。

 元気の良すぎる銀杏田の返事に被さるように、来客を告げる音が鳴り響いた。

「……今、何時?」

「あと五分で十四時です!」

「その依頼人第一号氏との約束は?」

「十四時からです! というわけでご案内してきます! あっ、先生は取り敢えずこれを羽織って、ついでにこのサングラスをかけておいてくださいね」

 銀杏田は素早い手捌きで根古谷に随分とぎらついた装飾の施された服を羽織らせボタンを留め、大きな丸いサングラスをかけさせると、足裏を置いた部分から花が咲きそうな軽やかさで入口扉へと向かって行った。

 扉を開ける直前、振り返って立てた親指の腹を見せて「例え寝癖があっても先生の素晴らしさは損なわれませんよ!」とウインクをしてきたが、そんな事は聞いていない。

 手探りで髪の毛の跳ねたところを探していると、インターフォンで来客応対をする銀杏田の声が聞こえてきた。

「はい! 根古谷霊視・カウンセリング相談所です!」

 そんな、屋号まで変わって、というか霊視って何の話だ。

 一切覚えのない屋号が聞こえてきて、根古谷は思わず髪の毛を数本引き抜き、その鈍い痛みに悶絶する羽目となった。



   02


 根古谷の知らぬ間に取り付けられていた約束の、ぴったり五分前の時間にその男はやって来た。

 痩せ気味の体躯を見るからに上等なスーツに包み、白髪の一本も存在を許されていなさそうな真っ黒の髪を寸分の隙なく整え、スクエアフレームの眼鏡の奥の目も同じく真っ黒い。

 上背が高く手足も長く、それが余計に痩躯を強調しているようだった。

 銀杏田に案内されて入室してきた、そんなどうにも神経質そうな印象の男は、背中にまるで鉄の棒を刺しているみたいに真っ直ぐで長い体を折り曲げるようにしてソファに預けると、これまでの印象全てを払拭する朗らかな声で言った。


「家の前にですね、死体が捨ててあるんですよ」


 声のトーンは穏やかで、それこそ心停止を示す一本の波形と同じく揺らがない落ち着きのあるものだったので、根古谷は反応が遅れた。もしかすると魂が口から抜けていたのかもしれない。

 来客用に改めて珈琲を運んできた銀杏田が「せーんせ」と猫かぶりな声をかけてきた事でようやく意識が明瞭になり、言われた内容を理解する。

「し、ししししししたいですか?」

 魂の代わりに口から飛び出した声は、みっともなく上擦っているのが自分でも分かった。

 動揺を隠せない根古谷に対し、依頼人の男は「そうです、死体が」と相槌を打った後、目を細めて薄っすらと笑った。

「見事なビブラートですね」

 勢いのまま窓から飛び出してしまっても許されるかもしれない恥ずかしさだった。

 しかし、ここが建物の何階であるかさえ根古谷は知らないままだ。それを聞くより早く依頼人との対面となってしまったので、寸でのところで思い直す。主に自分の体と命の為に。

「わっ、褒められましたよ先生!」

 根古谷が腰を下ろしているソファの後ろに立った銀杏田が、スーパーボールよりも弾んだ声で言ってくるが、一から十まで嫌味だろう。

 分かっているのか分かっていないのか判別の付かない態度の銀杏田を無視して、根古谷は姿勢を正し男に向き直った。

「失礼しました。ええと、続きをお話いただけますか」

「あ、もしお帰りの場合は俺がご案内しますね」

「繰り返しになりますが、家の前にですね、死体が捨ててあるんですよ」

 銀杏田の物言いを咎めるか感謝するか悩ましいと思っていると、男はこちらのやり取りなど一切気にも留めていない態度で、淡々と繰り返した。

「先週の終わりから始まって、今日で六日目となります」

 もしかして毎日でございますか?

 声にならない声が、か細い悲鳴のような音として根古谷の口端からこぼれ落ちる。

 銀杏田の軽口の通り、お帰りになってほしかったと思いながら、根古谷は覚悟を決めて男の話を聞く姿勢を取った。


   □


 樹洞きのうろと名乗った依頼人の男は、根古谷もよく知るメーカーの社名が記された名刺を差し出してきた。

 見た目から推測できる年齢は三十代前半というところだったが、その割に大層な肩書を持っているらしい。

 地位もあれば身形から財もあるだろう一角の人物が、こんな屋号が変わったばかりで実績も大した事ない怪しい事務所に相談に来る時点で、真っ当な内容ではないのだろう。

 そんな考えを顔に出してしまわないように注意しつつ、根古谷も自分の名刺を取り出した。

 某コピーサービスの店舗で作ったシンプルな名刺が、いつの間にか厚手の黒い紙に銀インクで印字されたものとすり替わってる事は、樹洞が帰った後で銀杏田に聞こうと思いながら、名刺の交換を終える。

「……失礼、こちらはビジネスネームでしょうか?」

「歴とした本名です」

 名刺を確認した樹洞が不可解そうに尋ねてきたのに対し、半笑いで答える。

 『根古谷木更津ねごやきさらづ』と銀インクで記されており、これが本名であるという時点で事務所の怪しさは倍増しだろう。

 屋号が変わる、正確には変えられる前にも五人中一人の依頼人がフルネームを知って帰って行った記憶に、樹洞が「やっぱり他を当たります」と帰ったりしないだろうかという期待が僅かに顔を覗かせる。さっき銀杏田に着せられた服もサングラスもどちらも怪しさを助長しているので、結構好い線を行ってはいないだろうか。

「随分と前衛的な命名センスの親御さんなんですね」

「いいんですよ、変な名前だと言ってくださっても……」

 名乗った際や、氏名を読み上げられる時——主に薬局の受付などだ——で受けてきた複雑な対応を思い返しながら答える。樹洞はどうやら帰るつもりがないようなので、腹を決めた。

「樹洞さんは今回何をどう血迷ってうちに相談に来てしまったんですか?」

「先生、先生、本音と建て前があべこべになってますよ~」

「死体の件で困ったなあ、と思っていた矢先、こちらの相談所の広告が目に入りまして。画面をスクロールすると勝手に動いて誤タップを誘発するタイプの、よくあるやつだったんですが、消すつもりがページを開いてしまい、まあ、折角の縁だな、とノリで」

「ノリですか」

 悩みの重さと本人のテンションにあまりにも差がありすぎて、思わず銀杏田を見上げる。

 銀杏田は微笑み、指を閉じたまま開いた右手を左肩に当て、右の脇腹に向けて斜めに引き下ろして見せた。

 以前耳の聞こえない依頼人が来た際に一緒に覚えた手話の知識が、まさかこんなところで発揮されるとは数奇な縁だが、やむを得ないだとか仕方ないだとか、そういった意味だと気付いてげんなりとした気持ちになる。

 というか、いつの間にそんな傍迷惑な広告を出していたのか、名刺の件と合わせて後で確認する事が増えてしまった。

「では、本日のご相談はその死体の件でよろしいでしょうか?」

 樹洞が頷く。失言した自分が言えた立場ではないが、何故問題なく会話が進んでいるのか分からなかった。

 とは言え、もう逃げ道はなさそうなので話を続ける。死体、と口にした時、少しだけ背中がひやりとした気がした。

「順を追って話させていただきます。と言っても長いものではありませんが——最初の異変は先週の金曜日の朝に起きました」

 曰く、最初は小さな虫の死骸だったそうだ。どこにでもいる羽虫が地面で息絶えた姿。それがぱっと見で分かる数、箒で掃き集められたゴミのように山の形で玄関前に鎮座していた。

 勿論、虫の死骸は無菌室などで生活していない限りはいくらでも遭遇の機会がある。樹洞自身も、朝から嫌なものを見た程度の認識で特別気にしなかった。山のように集められている異常性に気が付いたのは、後からの事だったらしい。

 そして、翌日の土曜日も同様の異変が続いた。

 休日という事もあり、近所の喫茶店にモーニングでも食べに行こうとしていた樹洞の目に、それは飛び込んできた。

 瘦せ細ったスズメの死骸が、玄関前に転がっていた。

「思わず動画の逆再生のように玄関扉を閉めてしまいましたよ」

「本当にそのテンションの反応で良かったんですか? あ、すみません、続きをどうぞ」

「はい。その更に翌日の日曜日には、泡を吹いたように口から濁ったものを吐く鼠の死骸が。鴉が。蛇が」


 そうして今朝は猫の死骸が玄関前に転がっていた。


「通報をするべきではないでしょうか?」

 話し終えたのか口を閉じた樹洞と目を合わせ、珈琲を一口飲んでから根古谷は言った。

 平坦な口調で語られる、加速していくばかりの異変の話につい本音が飛び出したとも言う。

 控えめに見積もっても誰かの嫌がらせ、異常者の付きまとい被害に該当するのではないかと考えられるし、そうでなくても根古谷が対応できる範疇の悩みではない。

 震度いくつになるか怪しい縦揺れをソファの上で披露しながら、珈琲に追加の砂糖を入れようとして銀杏田に包みを奪われている根古谷と対照に、落ち着いた様子の樹洞は小さく首を振った。

「いえ、そんな大事にはしたくありませんし」

「大事ですよ、十分に大事ですって! 少なくとも罪のない小動物が無用に命を奪われているわけですし」

「ははは、次はきっと犬畜生ですね」

「銀杏田くん! 私ちょっとこの人怖いなあ!」

「怯える先生もいいなって思ってるところですよ、俺は」

 前門の虎後門の狼のような状況に頭痛を催しながら、根古谷は珈琲を一息に飲み干して、カップを置いた。

「とにかく樹洞さん、これはうちみたいな胡散臭い事務所じゃなく警察に相談すべき案件ですし、通報とまでいかなくても相談をすれば付近のパトロール頻度が上がると思うので」

「それでですね、何となくですけど、数日後には人間の赤ん坊とか、そういった死体が置かれる予感がありまして」

「あ、話続けられるんですね? それこそ警察への通報一択ではないでしょうか? どうでしょうか、ここは一つお手持ちのスマホで110番」

 滝のように汗を流す心境のまま促せば、樹洞はスーツのポケットからスマホを取り出すと、薄く笑って見せた。

 ぴ、ぽ、ぱ、と軽やかな電子音が上がる。

「詐欺師の事務所ですって告発しましょうか?」

「あれ、おかしいな、脅迫されてる」



   03


 結論から言うと、樹洞からの相談は依頼として受ける事となった。

 根古谷の意見は通報一択で変わらなかったが、樹洞本人が頑なに拒否をしたので強く言う事もできず、半ば押し切るようにして依頼を取り付けられてしまった。

 そういえば銀杏田が大きな岩塩を持って見送りに行ったが、あれは何に使ったのだろうか。まあ、法に触れる事をしていないのであれば放っておこう。

「うちは開業届もきちんと出しているし、確定申告だって毎年頭を抱えながらやっているし、家賃の滞納もしていないし、ご近所との関係も玄関前に野菜を置いていってもらえるくらい良好だし、後ろ暗いところなんて何一つないクリーンな事務所だっていうのにね」

 ソファにぐったりと全身を預け、口に咥えた練乳のチューブを啜りながら呻くと、長い尻尾毛の先をいじっていた銀杏田が、ふふ、と笑った。

「野菜がたくさん入った段ボールを持ち上げた先生が腰に魔女の一撃を受けた時の写真は俺のアルバムの中で今も輝いてますよ!」

「撮ってる場合じゃなかったよね、絶対に」

 うちで怪しいところなんて、強いて言うなら根古谷のフルネームと銀杏田の存在くらいではないだろうか。しかし、探偵なんてものは言ってしまえば顧客ありきのサービス業だ。グーグルレビューで悪評なんて書かれたらたまったものではない。

 そこまで考えたところではたと気が付く。

「そういえば事務所の名前が変わっているようだったけど、霊視とか、……何?」

 曖昧だがそれ以外にどう言葉を選べば良いのか分からず、取り敢えず思ったままに聞いてみる。

 問いかけを受けた銀杏田は、根古谷の口から奪った練乳チューブをノールックでゴミ箱に放り込んでから「ああ」と手を叩いた。

「テコ入れをしようって言ったじゃないですか。俺もね、先生の素晴らしさを全世界に向けて発信するにはどうするのが一番良いかを色々考えたんですよ。でも先生はシャイな引きこもり気質だから急に環境を変えるとびっくりして死んでしまうかもなと不安に思って取り敢えずどんと来い超常現象的に最近流行りのオカルトで台頭していずれはテレビ出演なんかも視野に入れつつやっていくところから始めようかとアッ人工呼吸もAEDの使用も任せてくださいね俺多分ファーストキスになっちゃうけど人命救助ですし!」

「何も任せたくないし、息継ぎをしてほしいし、この話長くなる? できれば巻いてくれると助かるんだけど」

「しょうがないにゃあ」

「人のプライベートに口出ししたくないけど、銀杏田くん、悪いインターネットとか見すぎてないかな?」

 根古谷の苦言を華麗にスルーして、銀杏田は一本ずつ指を立てながら説明を始めた。

 まず、ここは前の事務所を大幅に改装しただけなので住所自体は変わっていないという事。廊下にあった筈の手洗いが室内に存在していて、明らかに部屋の広さが変わっているような気がするが、銀杏田のやる事を深く考えた方が負けと判断して最近のリフォーム技術は進歩してるんだねえ、と流す事にした。

 次に、根古谷の口座残高は減っていないという事。これには正直、心底安堵した。けれども、それならば改装費用は一体どこから捻出されたのだろうか。自分の内臓の数や寿命の年数が減っているかもしれないという不安が頭を掠めたが、好物を食べて生きれるなら内臓の一つや寿命の数年くらいはもうどうでもいいので、これも流す事にする。

 最後に、霊視だの何だのという点についてだが。

「趣味です」

「趣味かあ」

 どうやら最近、白と赤色の某動画サイトで怪談の朗読を聞きながら入眠したり、インターネットの海でSCPとやらを読み耽った末の蛮行だったらしい。つまりはオカルトかぶれというわけだ。

 好きなものを仕事にしようと思ったのかもしれないが、それで根古谷の事務所の業態まで変えてしまうのは如何なものか。

 ここは一つ年長者として、そもそも事務所の所長として厳しく言ってやらねばなるまい。

「銀杏田くん、……あー……えーと……何歳だっけ、君」

「秘密です。先生、そういうのセクハラだから気を付けた方がいいですよ」

「ええ? ごめんごめん。あれ、何で私が怒られてるんだろう」

 あっさりと有耶無耶にされてしまった。

 銀杏田が煙に巻くのが上手いのか、根古谷の押しが弱すぎるのか。考えるまでもなく後者なので諦めよう。

 まあ、オカルトだとしても相談を聞いて調査をするという点では探偵と変わらない筈だ。変わらないでほしい。

 開き直りの気持ちで、胸ポケットに入れていたキャラメルの箱を取り出して一粒口に入れる。少し溶けて柔らかさを増していたが、その舌触りが今は心を癒してくれる。

「まあ、受けたからには仕事するしかないね。とは言っても、不審者の付きまといなら警察一択という意見は変わらないし、そもそもの話、何だってオカルト的な事案だと思ったのやら」

 テーブルに置いたままだった樹洞の名刺を指でつまみ上げる。

 樹洞という男の印象は、最初に感じたものから特に変わっていない。身嗜みを整え、時間を守り、会話の主導権を絶対に手放さないタイプ。最後のは根古谷が弱いだけかもしれないが、とにかくそんな男だ。

「何か心当たりがあるのかな。例えば、……、……あのさ、銀杏田くん。実は私、オカルト方面はそこまで詳しくないから何も浮かんでこないんだよね。依頼人第一号から破綻してないかな」

「そんな時の為の俺! 胡乱な事なら全部お任せの銀杏田並木いちょうだなみき(偽名)ですよ先生! あは、俺が全部手助けしてあげますからね!」

「怖い怖い怖い本当に勢いが怖い、あとうちで助手をやるならそろそろ本名教えてほしいし自分で胡乱とか言うのやめよう?」


   □


 ハイテンションかつ、いけないクスリでもキメているのではと疑いたくなる銀杏田——恐ろしい事にこれが通常運転だ——との成立しそうでたまにしていない会話の末、出た結論は次の通りだ。

「ジャンル的には人怖だと思うんですよね」

「ひとこわ」

 耳慣れない単語に思わず反復すると、考え込む姿勢を取っていた銀杏田がきらりと目を輝かせた。

「言われた事をそのまま繰り返す幼児のような先生に説明するとですね! いわゆる現実の人間の狂気性に焦点を当てた作品の分類だと思ってもらえればいいです! ぶっちゃけるとオカルトじゃなくてストーカーじゃね? って感じです」

「じゃあやっぱり通報で良かったんじゃないかな……?」

「でも先生、受けちゃいましたしねえ!」

 勢いに気圧されつつも言い返してみたが、ばっさり切って捨てられた。事実なので言い訳の一つ浮かばない。

「そういう強く押されたら勝てないところ、普通に付け込まれて人生大変になるから注意した方がいいですよ〜」

 根古谷の人生に付け込んでいる筆頭の男が何か囀っている。とは言え悲しいかなそれも事実なので反省して、今後は強気に出る事もしないといけない。

「ここ最近は本当にまずい時は、銀杏田くんが私の足を払って転ばせたり茶々を入れたりして止めてくれてるからね。甘えちゃってるのは反省しないとね」

「そんな、俺にはいいんですよお! いくら甘えてくれても大丈夫です、母のように優しく父のようにどっしり構えて受け止めますからね! 不肖銀杏田、いつでも先生の保護者になる覚悟があります!」

 一を褒めると月まで飛んで行く勢いで加速する銀杏田を放って、根古谷は樹洞の名刺に視線を向けた。

 何故、ああも頑なに警察への通報を拒むのか。警察が介入しては困る事情でも抱えているのか。まあ、若くして立場のある人間というものは色々と大変なのだろう程度に考えて、名刺をテーブルの上に戻す。

 些細な事でも頭を働かせると甘いものが欲しくなる。胸ポケットから再度キャラメルの箱を取り出して三粒まとめて口に放り込んだ。

 口に入れる前から体温で溶けているなあと呟くと、銀杏田が形容し難い顔を向けてきている事に気が付いた。箱の中のキャラメルの残数を確認してから、声をかける。

「一粒いる?」

「いえ、俺は砂糖に群がる蟻とかじゃないんで……」

 その返答に今度は根古谷が神妙な顔をする番だったが、銀杏田はそれには何も言わずに言葉を続けた。

「どこかで祠を壊したとか、先祖代々の品を売り払ったとか、心霊スポットで突撃配信とか、そういう心当たりがあるんじゃないですかね?」

「最後のやつは何? そういうのがあるんだ?」

 軽く手を上げて質問をしてみたが、にこりと微笑んで流されてしまった。

 おじさんはこれだから、と言われたような被害妄想を誤魔化す為に口の中のキャラメルに意識を集中させる事にする。

「極論ですけど、本物の怪異や心霊体験なんて、そんなもの殆どありませんよ。大抵の原因は人間にあるし、大体は科学が解明してくれるってオカルト先生も言ってました」

 誰の話だろう。インターネットにたくさんいそうな気がしたので、口を挟む代わりにキャラメルを歯の間に挟む。

「こういうのは結局のところ、明確な解決のゴールなんてありはしないんですよ。最終的には相談者が納得してくれれば終わるものです。つまり! 先生の魅力と若干不安が残るところも可愛らしい弁舌で煙に巻くんです!」

「詐欺だよね?」

 流石に看過できずに声を上げるも、銀杏田は変わらない笑顔だけを向けてくる。

 樹洞の言った通り、詐欺師の事務所として通報される未来が鮮明に頭に浮かんだが、今は考えないようにしておこうと頭を振って、残りのキャラメルも全部まとめて口に詰め込んだ。

 甘いものの多幸感は嫌な事の大半をどうでもよくさせてくれるからすごい。依存性、常習性も半端ないのに、これで違法ではないのだから恐ろしい。空箱を足元のゴミ箱に入れて立ち上がる。

「取り敢えず現地の調査でも行こうか。そういえばあの人、玄関前の死骸をどう処理したのか聞くのを忘れてたね」

「それなら見送るついでに聞いておきましたよ! 足で蹴って脇の方に除けてるそうです!」

 あっけらかんと言う銀杏田に、根古谷は思わず動きを止めた。

 足で蹴り、脇の方に、除けてある。

「つまり、もしかしなくても、そのまま?」

 でしょうねえ、と肯定が返り、何だか背中がじんわりと冷たくなるような感触が生まれた。

 鼻先に生き物の腐るにおいが漂ってくるようで、頭痛を堪えるようにこめかみを指先で揉む。

「いやいやいやいや、いや〜……ちょっと嫌だね……?」

 肩が重たく感じるのは銀杏田に羽織らされたままの上着のせい。

 視界が暗いのも銀杏田にかけられたサングラスのせい。

 それを素直に身に付けたままの根古谷の素直さと投げやりさも原因に計上しておくとして。

「依頼人が一番怖いってパターンもありますよね!」

 楽しそうに外出の準備を始めた銀杏田の声を聞きながら、根古谷は自分の精神安定の為、ポケットに入る限りの菓子を詰め込んだ。



   04


 樹洞から渡された住所までの道のりを調べたところ、電車とバスを乗り継ぎ、そこから更に徒歩で二十分という、やけに辺鄙な場所が示された。

 ——が、そんな面倒な乗り継ぎはしていられないし、交通機関の最終を逃して帰宅難民になるわけにもいかないので、レンタカーを使う事にした。

 出発の時点で夕方だったので翌日に持ち越す事も考えたが、それを口にするより早く、根古谷はレンタカーの助手席に詰め込まれてしまっていたので、善は急げと思い込む事にしたわけだ。

 そんなわけで事務所を出てから早いもので二時間ほど、銀杏田の運転する車で街灯の少ない、見渡す限り田んぼのような田舎道を走っている。会話は多くない。

「銀杏田くんって免許の名前はどうなってるわけ」

「あっはは!」

 雑談ついでに投げかけた疑問に狂気じみた笑いが返ったので、根古谷は途中立ち寄ったコンビニで買い込んだ菓子を口に運ぶ事で時間を潰している。

 今のところ安全運転、法定速度も遵守しているので、銀杏田が免許証を所持しているなら名前の正誤などは些事かもしれない。無免許の可能性については、大変恐ろしいが今は目を瞑っておこうと思う。

 さて、カーナビの示す経路を見るに目的地まではあと少しのようだが、目を背けられない疑問がいくつかある。根古谷は板チョコを前歯で割って食べながら口にした。

「この辺りに喫茶店ってあると思う?」

「ご高齢の方が細々とやっている商店や駄菓子屋で世間話ついでに麦茶やラムネをご馳走になる事が含まれているなら、ほうら右手に見えますのは閉業済みの何らかの店だったものですよ!」

 そう言って窓の外へ右手の指先を向けられても、街灯が少ない上に走行する車の中からでは何も見えない。ので、それは無視して根古谷はカーナビを指で指し示した。

「もらった住所って合ってるよね? カーナビに入れ間違えてたり、わざと別の目的地に向かってたりとかしない?」

「先生って実は俺の事全然信用してくれてませんよね! 傷付いちゃうなあ!」

 大きな声で笑いながら、銀杏田は車を停めた。

 どうやら、ようやく目的地に辿り着いたらしい。あと三十分ほど長くかかるようだったら帰りの道中分の菓子が不安になるところだったので助かった。

 わざわざ回り込んできてドアを開けてくれた銀杏田に促され、車から降りる。


   □


 しん、と静かな場所だった。

 ひやりとした空気が顔を撫でてくる。

 季節はまだ夏と言って差し支えないが、夜になれば冷え込むのも致し方ないだろう。山に近いというのも理由の一つになる。

 それにしてもやけに静かな場所だと根古谷は思った。山だというのに虫の鳴き声一つ聞こえてこないのは、些か異常のように感じる。

 靴裏には小さな砂利の感触がある。整地されていない地面の上に立ち、田舎の方はこういうところ多いよね、と思いながら周囲を見回してみた。

 ここまでの道のりと同じく、少ない街灯の明かりで照らされ、浮かび上がる一軒の家。

 根古谷の実家も郊外の方にあったが、その近所によくあったタイプの洋風の家だ。山近くのロケーションからは浮いているが、お洒落で若い夫婦が好みそうな外観だった。

 この家が、樹洞の自宅という事で良いのだろうか。

 広い庭には中身のこぼれたプランターが転がり、開いたままの車庫の中にはバンパーが半壊して乗れたものではない車が放置されている。

 銀杏田が向けた懐中電灯によって照らされた、庭に面した大きな掃き出し窓は割れ、ガムテープで雑な修繕がされていた。

「わあ! 人が住んでるとは到底思いたくないタイプのお宅ですね!」

 それの何が楽しいのか、銀杏田は懐中電灯の光を根古谷に向けたまま体をくねらせるようにして弾んだ声を上げた。動きに合わせてあちこちに向く光が眩しいので、やめてねと言えば素直に動きを止めたので良しとする。

「樹洞さん、本当にここに住んでると思う?」

「もしそうなら普通に異常者だと思いますよ! ここに来るまでにかかった時間はあの人の会社に通うのに現実的な時間じゃないですしリモートワークの線も薄いと思います。ほら、スマホが圏外。取引先との電話が一本も繋がらないなんて仕事に支障しかないですし、……はっ、つまり今ここで何か起きた時に先生が頼れる相手は俺だけ! オンリーワン! すみません興奮してきました、踊ってもいいですか?」

「いい空気吸ってるところ悪いけど、ちょっと気持ち悪いから今はそのテンションやめてくれるかな?」

 頬に手を当ててまた体をくねくねとしながら、息を荒げてボルテージも上げていく銀杏田に真正面から苦情を申し立てる。

 助手を自称する偽名の男は、はあい、と間延びした声と共に先に立って歩き出した。

 懐中電灯で順番に照らしながら、周囲の確認を進める。

「もし本当に住んでいるとして、少なくとも今は在宅してないよね。車が必須の立地だけど使える車も置かれてないし」

「そうですね〜。あ、玄関のドアが熊でも出たのかって感じに壊されてますよ。中に小さな子供用の靴が散らばってるのが見えますね。ひい、ふう、み、よ……」

「山が近いから本当に出てきそうなのが怖いね……いや靴の数多くない?」

「安心してください! 熊が出たとしても俺が片腕を犠牲にしてでも先生の事は無事に逃がしますからね!」

「片腕で済むと思ってるのが別の意味で怖いね……。そういえば、死骸は玄関脇に除けてるって話だったと思うんだけど」

 根古谷の声に、玄関ドアの亀裂から中を覗き込んでいた銀杏田が「ああ」と玄関の周囲に向けて懐中電灯の光を旋回させた。

 照らし出された範囲の中に、それらしいものは一つも見当たらない。

「ないですね! というか、ここって何のにおいも音もしないですよね。山の近くなのに自然のにおいがないし、虫の鳴き声なんかも聞こえてこないし、浮浪者とかは……これだけ街中から離れた立地じゃ住み着けないし」

 疑問ばかりが転がっている現状に、根古谷は溜息を吐いて肩を竦めた。

「間違えた住所を教えられた、嫌がらせや悪戯目的で相談に来た、そもそも樹洞さん自体が銀杏田くんの仕込んだヤラセ……どれだと思う? 私としてはもういっそ三つ目だと物凄く気が楽なんだけど」

「先生って本当に俺の事信用してなくてドキドキするなあ! 俺は友達いないんでこんな事頼める人なんていませんよお〜、もうっ、言わせないでください!」

「え、ごめんごめん! 配慮なかったね! いや照れながら言う事かな、それ……?」

 ケラケラと楽しそうに笑う銀杏田の声に若干の疲労を覚えながら、改めて家を見る。

 築年数はそこまででもなさそうだが、こうも壊れている箇所が多く、その上で恐らくは廃屋といった雰囲気から実際よりも桁数が積み重なっているように感じられた。

 それに、時間が夜という事を差し引いても家の中がやけに暗く感じる。

 銀杏田が玄関の中を照らして靴の数を数えていたが、根古谷には何も見えなかった。勿論、サングラスはちゃんと外した上でだ。

 懐中電灯の照射範囲は確かに細く狭いが、それでも一切の光が通らないように内側が少しも見えないというのは違和感があった。少なくともカーテンの裏地くらいは見える筈だが、まあ、光の当たる加減にもよるだろうと考える事を放棄した。

「よし、帰ろう」

 少なくとも、聞いていた死骸がなければ何の調べようもない。そもそも場所自体が違う可能性が高い。それこそ急上昇中の株価よりもおかしな上がり方をしている。

「銀杏田くーん。帰って、明日改めて樹洞さんに連絡する事にしよう。このままここにいると別の問題が見つかりそうで、私それは極力回避したいなー」

 いつの間にか少し離れたところでしゃがみ込んでいた銀杏田の背中に声をかける。

 はあい、と相変わらず軽い調子の声を上げて根古谷の隣まで戻った銀杏田は、わざとらしく顎の下から懐中電灯の光を当ててにこりと笑った。

 周囲の雰囲気との相乗効果で少しだけ、いやかなりとても不気味だったが、歳上の矜持でギリギリ耐える。

「別の死体なんかが出てきたら熊以上に困っちゃいますもんね! 一応周囲の録音はしてみたので帰りの車内で確認してくださいね。あとは軽く外観を撮影してくるので先生は先に車に乗っててください!」

 言い置いてスキップするような足取りで庭に駆けていく銀杏田を見送る。

 こまごまと動いてくれて有難いのは事実だし、元気なのは良い事かもしれないが、勢いがありすぎて怖い。

 言われた通り車に戻り、助手席に乗り込む前にもう一度家を見上げる。

 冷えた空気。何のにおいも音もない暗闇の中、僅かな明かりのみで存在の輪郭を示す無人の家は、きっと何もないのだと分かっていても不安を掻き立ててくる。

 もしかすると、過去にこの家で何かがあったのかもしれない。とは言え、よその事情なんて首を突っ込んでも良い事なんて一つとしてないのだと、溜息と共に助手席に乗り込みシートベルトをして銀杏田を待つ。

 少ししてから、フロントガラスの向こう、白い姿が軽快なステップを踏んで車へと向かってくるのが見えた。ご機嫌に鼻歌でも歌っているのか、途中くるりと一回転などしてから踊るように運転席へと乗り込んでくる。

「楽しそうだね」

「そりゃあもう! 先生との長距離ドライブに加えて何かちょっと不気味な廃屋の写真もたくさん撮れましたからね! いやあ、樹洞さんには足を向けて寝れないなあ!」

 本当にご機嫌の様子の銀杏田がエンジンをかけ、車が動き出す。

「うんうん、その勢いは怖いけど長時間の運転を苦にしないでくれるのは助かるよ、ありがとう」

 そう言った次の瞬間、車が大きな音を立てて停まった。急ブレーキの反動でシートベルトが油断の腹回りに食い込む感触に「おぇ」と呻く。

 生理的な反射で浮かんできた涙を拭いながら、何事かと視線を向ければ、銀杏田は大真面目な顔で根古谷を見返して、普段とは打って変わって低い声で言った。

「急に褒めるのやめてください。事故っちゃうので」

 銀杏田の普段の語録を参考にするなら、ガチ度の高いその声音に慌てて頷きを返すと、ぱっといつも通りの笑顔に戻り前を向いて車を発進させた。

「怖ぁ……」

「え〜? だってほら推しから急にお礼なんて言われたらびっくりしてブレーキとアクセル間違えるくらいしちゃいません? でも安心していいですよ! 俺は先生の健康と生活を守護る事に人生を捧げてるので!」

「もう銀杏田くんが何言ってても怖いなあ。取り敢えずさっきの録音確認するから、スマホ借りるね?」

「はい喜んで〜!」

 居酒屋の店員のような相槌を聞き流して、銀杏田が片手で差し出してきたスマホを受け取る。

 無駄足の小旅行のようなものだったが、銀杏田が楽しそうにしていたので良かったと思った事は口にしない方がいいんだろうと思いながら、イヤホンを差し込んで再生を開始した。

「……」

 開始して数秒で再生を停止する。

 外にいた時は絶対に聞こえていなかった虫の鳴き声や、野犬の遠吠えのような音が、自分達の声を掻き消す大きさで録音されていた。

「ええ……怖ぁ……」

 根古谷の再度の呟きに、銀杏田は「そんな事もありますよ!」と笑う。

 あってたまるものかという泣き言は、車のエンジン音で掻き消された。



   05


「お陰様で無事に解決しました」

 つい昨日の昼間に別れたばかりの依頼人こと樹洞が、事前連絡もなしに早朝のインターフォンを鳴らした。

 出迎えた銀杏田に手土産と思われる紙袋を渡してから靴音を鳴らして入ってくると、勧めるより早くソファに腰を下ろして、更には根古谷が向かいに座るのも待たずに話し始めた。

「いえね、先日の相談の帰り際、そちらの……失礼、名前を伺うのを失念していたようで」

「銀杏田並木、偽名です!」

「そちらの偽名の銀杏田さんから岩塩をいただきまして」

「流していいんですか? 偽名……」

 何やら第一印象から大分砕けた感のある、というよりは憑き物が落ちたような樹洞の様子に首を傾げつつ、向かいに座る。

「帰宅した際、家の玄関前で自分の首を掻き切って奇声のような悲鳴のような気味の悪い笑い方をしている女がいたんですが、銀杏田さんからいただいた岩塩を投げ付けて倒れた隙に警察を呼び、これまでの死骸もその女の仕業であると判明したのでご報告に来た次第です」

「たった一日で急展開からのスピード解決ですね⁉︎」

 思わず声を上げてしまった根古谷を意にも介さず、樹洞は朗らかに笑って続けた。

「いや、それもこれもこちらに相談に来たおかげです」

 しみじみとした語り口に、そんなわけはない絶対にないという言葉をぐっと飲み込む。

「少なくともあの岩塩をいただいていなければ、女にぶつけるものも持っておらず、こちらも切り付けられていたと思います。なので、お二人には本当に感謝しているんですよ」

 何もしていないのに感謝を言われても、物凄く困るし居心地が悪い、というのが正直なところだが、本心から安堵して感謝を口にする樹洞にそれを言うのは憚られた。

 というか、これは岩塩を渡した銀杏田が受けるべき感謝の筈だ。新装開店したばかりの事務所に何故岩塩の用意があったのかは分からないが、とにかくこの感謝は根古谷が受け取っていいものではない。

「ふふ、俺の功績は全て先生のものですよ!」

 宝くじで億を当てても全額贈与してきそうな声で囁かれ、引き攣った笑いで樹洞を見る。

 言うだけ言って満足したのか、帰り支度を始めた彼は、身近で困っている人間がいたらここを紹介しておきますね、と笑った。有難いのに嬉しくないという気持ちを無理矢理隠して、根古谷も笑みを返した。

 何はともあれ、解決したのであればそれが全てだ。

 女が何の目的でそんな事をしていたのかも、最初に提案した警察への通報を樹洞が拒否していた理由も、根古谷が知る必要はない。

 これまで手がけてきた不倫の実態調査と同じで、結果がまとまればそれで良い。

 けれど、流石に何もしていないので報酬は請求できないなあ、などと肩を落としていると、樹洞を見送った銀杏田が戻ってくる。

「相談と依頼料は本日中に振り込みます、だそうですよ〜」

「やっぱりこれって詐欺じゃない?」

 相談と報告で合わせて三十分も話を聞いていないのに受け取るわけには、と口をもごもごさせる根古谷に対し、銀杏田は「だから言ったじゃないですか」と笑った。

「本人が納得すればそこがゴールなんですよ」

 本当にいつか詐欺だと言われたら、この自称助手を警察に突き出して自分は首を括ろう。

 根古谷がそんな決意を固めているなど想像もしていないだろう銀杏田は、うふふ、と楽しそうに笑っている。

 それから、お茶用意しますね、と引っ込んでいく銀杏田の背中に向けて声をかけた。

「そういえば、結局あの住所の話が出なかった気がするんだけど」

 問いに銀杏田は振り返り、それはもう花も綻ぶような満面の笑みを浮かべた。

「先生とのドライブ楽しかったなあ!」

 その返答にやっぱりか、と脱力してソファに沈み込む。

 まだ見慣れない天井を見上げ、根古谷はサングラスを外しながら声を出した。

「嘘ついた反省の代わりにめちゃくちゃ甘いココアお願いね」

「嫌です!」

 食い気味の銀杏田の返事に重なるようにして、来客を告げるインターフォンが響いた。

 根古谷が体を起こすより早く、奥から出てきた銀杏田が元気良く応対する。

 依頼人第二号はもう少し普通の、できれば詐欺になりようがない相談内容だといい。

 期待値の低い願いを胸に抱きながら、根古谷は取り敢えず、外していたサングラスをもう一度かけた。

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