第2話 予兆と初めての跳躍
翌朝、目覚まし時計のけたたましい音で悠斗は跳び起きた。昨夜の雨はすっかり上がり、カーテンの隙間から眩しい朝日が差し込んでいる。
「今日も一日、頑張らないとな」
欠伸をしながらそう呟き、悠斗は慌ただしく支度を始めた。朝食は食パン一枚とコーヒー。質素だが、一人暮らしの身には十分だ。
大学へ向かう電車の中、悠斗は昨日感じた奇妙な感覚についてぼんやりと考えていた。時間が止まったような、あの不思議な体験は一体何だったのだろうか。単なる疲労のせいだと割り切ろうとしても、どうしても引っかかるものがあった。
その日の午後の授業中だった。経済史の退屈な講義を聞きながら、悠斗はノートに落書きをしていた。未来の企業の株価予想……もちろん、ただの妄想だ。ふと顔を上げると、教授が何か重要なことを言っているようだったが、意識は朦朧としていた。
その瞬間だった。
昨日と同じ、いや、それ以上に強烈な感覚が悠斗を襲った。周囲の音が完全に消え、目の前の光景がピタリと静止する。教授の声も、ノートを走るペン先の音も、隣の席の学生の微かな咳払いも、全てが絵画のように動かなくなった。
「ま、また……!?」
悠斗は驚愕に目を見開いた。今度は気のせいなどではない。明らかに世界が、自分以外の全てが止まっている。心臓が激しく鼓動し、冷や汗が背中を伝った。
どれくらいの時間が経っただろうか。数秒か、あるいはもっと長く感じられたかもしれない。突然、止まっていた世界が再び動き出した。教授の声が聞こえ始め、隣の学生がペンを動かす音が蘇る。まるで、一時停止ボタンを押されていたビデオが再生されたかのようだった。
「……何かあったか?」
隣の席の女子学生、小鳥遊 雫が心配そうな表情で悠斗の顔を覗き込んだ。
「いや、なんでもない……ちょっと考え事をしていただけだ」
悠斗は平静を装って答えたが、内心は激しく動揺していた。二日連続で、しかも今度は授業中にまで。これはただの偶然や体調不良では説明がつかない。
その日の帰り道、悠斗は改めてあの奇妙な感覚について深く考えていた。何かトリガーがあるのだろうか?昨日はアルバイト中と自宅での学習中。今日は授業中……共通点は、集中している時、あるいは疲労を感じている時だろうか?
アパートの自室に戻り、悠斗はベッドに倒れ込んだ。疲労はピークに達していた。目を閉じると、すぐに眠りに落ちた。
そして、夢を見た。
見慣れない街並み。どこか懐かしいような、それでいて全く知らない風景が広がっていた。夕焼け空の下、悠斗は一人で立っている。周囲には楽しそうな人々の声が聞こえるが、なぜか自分だけがその輪に入れないような、そんな寂しさを感じていた。
ふと、背後から優しい声が聞こえた。「悠斗くん?」
振り返ると、そこに立っていたのは見覚えのない少女だった。長い黒髪を風になびかせ、憂いを帯びた瞳でこちらを見つめている。どこか儚げで、それでいて強い光を秘めたような、不思議な魅力を持つ少女だった。
「君は……?」
悠斗が問いかけようとした瞬間、少女は悲しそうな微笑みを浮かべ、そっと手を伸ばしてきた。その指先が悠斗の頬に触れた瞬間、強烈な光が弾け、悠斗は夢から覚めた。
心臓がドキドキと高鳴っている。嫌な汗が全身を覆っていた。夢の内容は鮮明に思い出せるのに、少女の顔だけがどうしても思い出せない。
「一体……何の夢だ?」
悠斗は寝室の窓から外を見やった。夜空には満月が浮かんでいる。時刻は午前三時を回っていた。
眠れなくなった悠斗は、仕方なくベッドから起き上がり、机に向かった。明日の授業の予習でもしようかと思ったが、どうしても夢の中の少女のことが頭から離れない。
何か手がかりはないかと、昨日の授業のノートを開いた。経済史の教授の言葉、小鳥遊さんの心配そうな顔……そして、あの奇妙な感覚が起こった瞬間のことを思い出そうとした。
その時だった。
ふと、ノートに書かれた株価予想の落書きが目に入った。それは、授業中に無意識に書いた、ありもしない企業の株価だったはずだ。しかし、なぜかその数字が、夢の中の少女を見た後に、脳裏に鮮明に焼き付いている。
「まさか……」
悠斗は半信半疑でスマートフォンを取り出し、その企業名で検索してみた。
検索結果が表示された瞬間、悠斗は息を呑んだ。
『東雲精密工業株式会社(しののめせいみつこうぎょう)、本日新規上場!初値は驚異の……』
信じられないことに、夢の中で落書きした企業が、本当に今日、株式市場に新規上場していたのだ。そして、ノートに書いた株価と、実際の初値がほぼ一致していた。
「そんな……馬鹿な……!」
悠斗は愕然とした。これは一体どういうことだ?ただの偶然ではありえない。夢の中の少女との出会いと、この異常な一致。何か、とてつもなく奇妙なことが起こっている。
混乱する頭で、悠斗は昨日の授業中の出来事をもう一度思い出してみた。あの時、時間が止まったと感じた直後、確かに自分の意識は朦朧としていた。まるで、一瞬だけ意識がどこか別の場所に飛んでいたかのように。
そして、夢の中の光景……あれは本当にただの夢だったのだろうか?
いてもたってもいられなくなった悠斗は、再びスマートフォンを手に取り、夢の中で少女に優しく声をかけられた時のことを思い出そうとした。黒髪で、憂いを帯びた瞳……確か、彼女は自分の名前を呼んだ。
もう一度、夢の中の出来事を反芻する。すると、断片的な記憶の中に、少女が何か言葉を呟いたような気がした。「……待ってて……必ず、また会えるから……」
その言葉が、妙に引っかかった。まるで、未来の出来事を予言しているかのように。
その夜、悠斗は眠ることができなかった。自分の身に起こった信じがたい出来事の数々が、彼の頭の中で渦巻いていた。
翌日、大学に向かう電車の中で、悠斗は注意深く周囲を観察していた。昨日と同じ時間、同じ場所。もし、あの奇妙な感覚が再び起こるとすれば……。
そして、予感は的中した。
電車が駅に停車しようとした瞬間、悠斗は昨日と同じように、強烈な時間停止の感覚に襲われた。しかし、今回は昨日よりもはっきりと、その感覚を自覚することができた。
「今だ……!」
悠斗は咄嗟にそう思った。時間が止まっている今なら、普段はできないことができるかもしれない。
衝動的に、悠斗は隣に立っていた女子学生に触れてみた。彼女は微動だにしない。瞬きすらしていない。まるで、マネキンのようだ。
悠斗は信じられない気持ちで、周囲を見回した。乗客たちは皆、それぞれの体勢で静止している。車内の広告の文字も、窓の外を流れる景色も、全てが静止画のように止まっていた。
「これが……俺の力なのか?」
恐怖と興奮が入り混じった感情が、悠斗の胸に押し寄せてきた。これは夢じゃない。現実だ。自分は、時間を止めることができる――少なくとも、そう感じられるような、不思議な力を手に入れたのだ。
しかし、この力は何なのだろう?なぜ自分に?そして、昨夜の夢に出てきた少女は何者なのか?
疑問は尽きないが、今は考えるよりもまず、この力を試してみるべきだ。悠斗はそう思い、停止した世界の中で、ほんの少しだけ歩き出してみた。足音は全くしない。空気さえも止まっているように感じられる。
そして、時間が再び動き出した瞬間、悠斗は理解した。あれは、時間が止まっていたのではない。自分だけが、ほんの一瞬、時間から取り残されていたのだ。まるで、一瞬だけ未来に跳躍していたかのように。
だとしたら、昨日の夢は……未来の予知夢だったのだろうか?あの少女は、未来の自分にとって重要な人物なのだろうか?
様々な憶測が頭を駆け巡る中、電車は目的の駅に到着した。悠斗は、いつもと変わらない喧騒の中に降り立ったが、彼の心の中は、既に昨日までの日常とは全く違う、未知の領域へと踏み出していた。
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