🌿第2話 方言という呪文

 陽菜の心は、鮎喰川を渡る風のように落ち着かない波を打っていた。

 昨日の出来事——阿波弁の詠唱で《コダマ》が反応したこと——が、頭から離れなかった。あのとき確かに、風が彼女の声に応え、川沿いの草をそよがせた。機械の冷たい青白い光ではなく、自然の呼吸と共鳴するような、あたたかな力があった。


 けれど、蓮の冷静な視線が、それを夢だと告げる。

 「AIがたまたま、環境データに基づいて風を起こしただけだよ。音声入力なんて不安定だし、論理的じゃない。」

 放課後の教室。陽菜は窓の外の山並みを見つめながら、頬を膨らませた。机の上に開いたノートには、教科書の文字の間に、自分なりに考えた詠唱のフレーズが書き込まれていた。

 「……でも、私、感じたもん。風が、川が、応えてくれた。」

 小さな声で呟くと、蓮は困ったように眉をひそめた。


 「やってみる?」

 彼はポケットからスマートフォンを取り出し、学校のネットワークに接続した。音声認識のインターフェースを開き、標準語で明瞭な声を響かせた。

 「風を起こせ。強く、正確に。」

 《コダマ》のインジケーターが青白く光り、一瞬、空気が震えたように見えた。だが、それ以上の反応はなかった。蓮の眉間に皺が寄る。

 「……おかしいな。昨日のときは……」


 陽菜は、そっと机の端を握った。心の奥から、ふいに浮かんできた言葉を紡いだ。声に出すのが怖かった。だけど、昨日の感覚を、もう一度信じたかった。

 「……つついっぱい……いっぱい、いっぱい……草むしりも……がいな風で飛ばしてしもたれ……」

 口から出た言葉は、まるで川の流れのように、自然に零れ落ちた。阿波弁の響きが、教室の空気に溶け込む。リズムと韻を刻む詠唱。蓮が驚いた顔をこちらに向けた。


 《コダマ》の青白い光が、一瞬、鮮やかな藍色に染まった。窓の外、校庭の一角にある花壇の草が、風に吹かれるようにざわめいた。いや、それは風ではなく、根元から草が崩れ、砂粒のように地面に還っていった。

 「……なんだ、これ……?」

 蓮の声が震えた。陽菜は思わず立ち上がり、窓に駆け寄った。見れば、花壇の草は跡形もなく消えていた。微細な振動が空気を震わせ、あたかもそこに「魔法」が宿ったかのようだった。


 「……これが、方言の……呪文?」

 蓮が呟いた。陽菜の胸の奥に、初めて芽生える誇りのようなものが膨らんだ。

 「うちの言葉……うちの町の言葉が、魔法になるなんて……」


 《コダマ》のパネルに、ログメッセージが浮かんでいた。

 【音声入力検知:方言パターン。応答優先度上昇。環境変数最適化。】

 その文字列は無機質なものだったが、どこかで「ありがとう」と言われたような、心の奥に響く温度を持っていた。


 放課後の教室は、夕陽に染められ、窓の外の山々も黄金色に輝いていた。風が校舎を撫で、桜の花びらをひらひらと運んでいく。陽菜は小さく息を吐き、蓮に向き直った。

 「……田舎の言葉だって、AIにだって、通じるんよ。」

 その言葉には、昨日までの自分にはなかった強さが宿っていた。蓮は、しばらく沈黙したあと、小さく頷いた。


 「……そうだね。もしかしたら、詠唱の言葉には、何か……理屈だけじゃない力があるのかもしれない。」

 陽菜は微笑んだ。風が、二人の間をふわりと吹き抜けた。


 《コダマ》の光は、静かに瞬き続けていた。まるで、言葉の力を、学び、聞き取り、そして心に刻もうとしているかのように——。


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