🌿第1話 鮎喰川に吹く新風

 春の風が、神山の山里をやわらかく撫でていた。

 谷を越えて鮎喰川の川面をなで、棚田の水面をきらめかせ、杉の木々をざわめかせる。その風は、どこか懐かしく、けれども新しい息吹を含んでいた。

 陽菜は制服のスカートを押さえ、そっと歩を進める。夕暮れ前、誰もいない鮎喰川沿いの小道。畑から戻る人影はまばらで、聞こえるのは川のせせらぎと、かすかな鳥の声だけだった。


 《コダマ》が、町にやってきた。

 AIによる「魔法」の実証実験。町の人々は、半信半疑でその黒い機械を見つめ、時には話題にし、時には眉をひそめている。そんな中、陽菜はただ、胸の奥に芽生えたざわめきを持て余していた。


 「……魔法、なんてなあ……」

 思わず口に出した。小さな声が、風にさらわれる。


 「ほんま、すごいな。でも、使いもんになるんやろか?」

 背後から声がした。陽菜が振り返ると、そこにいたのは蓮だった。整った制服姿に、どこか都会的な雰囲気。昨日、学校で自己紹介をしたばかりの転校生だ。彼は、陽菜の驚いた顔にかすかに微笑みを浮かべると、《コダマ》を見上げた。


 「音声入力のAIなんて珍しゅうないけどさ。詠唱ゆうて、詩とかラップとかで命令するんやろ? そんなん、効率悪いやん。徳島の田舎で、ほんまに動くんかなあ」

 その言葉は、陽菜の胸に、痛みのように刺さった。


 「田舎やけんて……」

 言い返そうとしても、うまく言葉が出てこない。自分がこの町で生まれ、川の流れや風の匂いの中で育ったこと。そのすべてが、どれほど大切で、自分の中に根付いているか、伝える言葉が見つからなかった。


 蓮は無邪気な声で続ける。

 「僕はな、標準語で詠唱してみたいんよ。きっちり効率的に、論理的に命令出したら、AIも迷わんやろ。『風を起こせ』とか『水を集めろ』とか、シンプルなほうがええ思うんや」

 《コダマ》のインジケーターが、青白く揺らめいた。


 陽菜は、川の流れを見つめた。

 風は、確かにここにいる。川面を撫で、草を揺らし、木々を歌わせる。その声に、もし言葉をかけることができたら——。


 「なあ、やってみん?」

 蓮の声に、陽菜ははっと顔を上げた。《コダマ》の前に立つ彼は、スマートフォンの接続パネルを開いている。画面には「入力準備完了」の文字。音声詠唱を受け付ける状態だ。

 「陽菜さんも、やってみたらええやん?」


 陽菜は迷った。でも、心の奥の小さな声がそっと背中を押した。今なら——。


 深呼吸をして、川の風の音に耳を澄ます。

 そして、口を開いた。


 「鮎喰川に風吹かしゃんせ、がいな力やけど、そっと優しゅうな、こんまい花も守ってや……」

 阿波弁まじりの言葉が川面に落ちた。方言のリズムが風に溶け、川のさざ波に重なり、空気がふるえた。


 《コダマ》のインジケーターが一瞬、鮮やかな藍色に変わる。周囲の空気がかすかに震え、川沿いの草花がそよぎ、風がふっと強まった。蓮の目が見開かれる。


 「……動いたんか……?」


 その瞬間、風は川面を駆け抜け、杉の梢を揺らし、陽菜のスカートをそっと翻した。春の風が、彼女の言葉に応えたのだ。


 心臓が高鳴った。胸の奥で、何かが小さく弾けた。


 ——ああ、これが、魔法なんや。


 心に秘めた声が、風に乗り、世界に届いた。鮎喰川の流れが、それを静かに祝福するようにきらめいていた。


 蓮が小さな声でつぶやいた。

 「……すごいな……」


 陽菜は顔を赤らめたが、胸を張った。川風が髪をなでる感触が、これまでになく鮮やかだった。


 《コダマ》は静かに彼女の詠唱を記録し、その内側で青白い光をまたたかせていた。まるで、これから始まる物語の予感を告げるように——。


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