詠唱する里 ―AIと魔法と方言の青春譚

Algo Lighter アルゴライター

序章:詠唱(プロローグ)

風が、神山の山肌をなでるように吹き抜けていく。

谷間をそよぐ風は、懐かしさと新しさをないまぜにして、どこか不思議な匂いを運んできた。

杉の葉がさわさわと音を立て、鮎喰川(あくいがわ)の水面が陽射しを受けてきらきらと揺れている。

春霞にぼやけた空には、遅い午後の雲が静かに横切っていた。


その日、町はわずかにざわめいていた。

「AI《コダマ》の実証実験」——

耳慣れない言葉が、棚田や畑で暮らす人々の間を静かに駆け巡っていた。

普段は機械に頼らずに暮らしてきた町の人々が、「機械仕掛けの魔法」の噂を語り合う。その光景は、どこか夢の中のようでもあった。


山下陽菜(やました ひな)は、鮎喰川沿いの小道に立って、川のせせらぎと風の音に耳を澄ませていた。

制服の袖を握りしめる手に、ひんやりとした春風が触れる。

胸の奥には、まだ名もない小さなざわめきが波紋のように広がっていた。


——AIが、魔法使うんかいな?


その言葉は、心の奥にひそやかに灯る憧れを、そっとくすぐる。

幼いころから、畑で、森で、川で、自然とともに過ごしてきた。

風の匂いや水の冷たさ、草花が揺れる気配。そうしたすべてを、陽菜はいつも「詠(うた)」のように感じてきたけれど、それが「魔法」だなんて思ったことはなかった。


夕暮れが近づくにつれ、帰り道は静けさを増していく。

遠くから、軽トラックのエンジン音と誰かの笑い声が山にこだましていた。

陽菜は足元の小石を蹴り、ふと顔を上げる。

集落の広場には、見慣れない機械がぽつんと設置されていた。

黒く艶やかな筐体に、青白いラインが静かに脈打つ。それが、AI《コダマ》だった。


「……あれが、AIなんかいな……すごいなぁ」


思わずこぼれた声は、春風に溶けて消えていった。


ふいに背後から、少年の声がした。


「ほんま、すごいな。でも、使いこなせるんかのう?」


振り返ると、見慣れない制服の少年が立っていた。

整った髪型に、都会の空気をまとったその少年は、自らを蓮(れん)と名乗った。

東京から、この町にやってきたばかりの転校生だった。


蓮はAI《コダマ》を指差しながら、言う。


「AIは、命令したらなんでもやってくれるけどな。けど、これは音声入力——しかも“詠唱”が要るらしいんよ。詩でも、ポエムでも、ラップでもええ言うけど……この町の人らぁ、ちゃんと使いこなせるんかなぁ?」


その言葉が、陽菜の胸の奥にひっそりと刺さった。


「……詩とか、ラップとか、そんなんやったことないけん……」


ぽつりとつぶやいた声は、川のせせらぎに紛れていく。


陽菜の心に、小さな波が立つ。

「うちは、きっと無理や……」——そう思いかける一方で、どこかで膨らむ好奇心もある。

もし、この風の匂いや川の声を“詠(うた)”にできたら。

その言葉に、ほんまに魔法が宿るんやったら——。


山の端に、夕陽が沈みかけていた。

鮎喰川の水面は、茜色に静かに染まる。


そのとき、AI《コダマ》のインジケーターが、かすかに揺らめいた。

それが陽菜の“心の声”を拾ったのか、それとも風のざわめきに応えたのか——誰にもわからない。


——きっと、これ、始まりに過ぎんのやろな。


川の流れが、静かにそう告げているようだった。


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