第三話 隠者とのしじま
ここ数日は本格的な山越えを余儀なくされていた。
直感的に困難な道を選んだと思っていたが、笠吉の影響があったからかも知れないと、カズは思い直していた。
〝親代わり〟の捜索と言う一点の目的のみで、ほかに有用な情報があるわけでもない。
盲目的にやみくもに進む道を選んできたが、何の成果も出せていない今、敢えて避けてきた方角に足を向けるしかなかった。
山道に踏み込んだ事は分かっても、全体像を見通す事が出来ない彼女にとっては、今歩を進めている環境は恐怖と隣り合わせだった。
疲労は蓄積しているが、いつ越えらるかもわからない状況で、カズは無数の雨に打たれ始める。
つんざく雨音が、方向感覚を狂わし出す──。
《・・・まずい》
まずは歩を止め、大木に寄り添い幾ばくかの雨を防ぐ。
体温も落ち始め、手足に力が入りづらくなっていた。
彼女は冷静に呼吸を整え始めた。
徐々に緊張は解かれ脱力していく。
そして聴く事に集中した。
雨粒が森全体にぶつかる音から、調整を試みる。今自分が寄り添う大木に聴き加減を合わせていく。
雑多な音から焦点が絞られ、頭上から降り注ぐ雨音と木々の打楽器のような音色に変換された。
そこからさらに、その隙間を縫う風向きに的を絞る。
カズの周りから雨音が消え、吹き抜ける風の通り道がはっきりと見えた。
その先に感じ取れた〝
《凌げる場!》
カズは残りの力を注ぎ〝
──迷い無い前進はやがて洞窟へと導いた。
入り口はカズがようやく入れるくらいの大きさで一時凌ぎには問題無いように思えた。
息急き切る状態のため、躊躇わず中に入り、腰を下ろした。
途端に更なる疲労が込み上げ、カズは寝落ちする。
そして──、いつの間にか雨は止み、静けさと共に死臭を嗅ぎ取った。
《はっ!》
急な目覚めにより、カズの感覚は一気に覚醒する。
《何かいる・・・》
それは洞窟の奥から感じ取れた。
光が届かない闇の中。
カズの本領が試されるところだった。
にじり寄りながら推察する。
死臭と気配が混在している。
奥に進むにつれ空間は若干広がり、生暖かい空気がまとわりつく。
カッ、カッ、と白杖は何かを捉えた。
手の平で確認する。
《竹・・・枠?》
そこは格子状に上手く造作された壁であった。カズはそのままでは進む事が出来ない。
ただ、その先に何者かは居た。今のところ危険ではない何かが──。
「誰かいるの?」
返答がない──。
ただ視線は感じていた。
カズは同じようにまた問いかけた。
「──誰かいるでしょ?」
しばらくしてから「い、い、い、居るよ・・・」と反応があった。
力無い声にカズも驚きつつも平静を装う。
「もしかして、出れないの?」
格子越しに声を放つ。
すぐに返答はなく、物音がしたと思えば火が点いた。
近づく気配を感じ、カズは警戒により若干後ずさった。
目の前を照らされ、己を見定められていると感じた。
「ち、ち、ち、違うよ」
唐突に答えが返ってきた。
しかも自分より低い位置からだった。
《子供?》
その者はカズをじっくりと観察し語りかけた。
「き、き、き、君は、め、め、目が見え、見えて、いない、ね、ね」
「・・・ええ」
「よ、よ、よくここに、こ、こ、来れたねぇ」
「・・・ええ」
ここまでのやり取りでカズには分かった事があった。
この男は子供ではなく、
もちろん〝奪う側〟では無さそうな事も含めた。
「も、も、も、もういいかな・・・ね、ね、眠りたいんだ、よ、よ」
カズに興味も示さない小男に、なぜか好奇心が湧いた。
「待って、もしかして住んでるの?」
「・・・あ、あ、ああ」
「ずっと?独りで?」
「ああ、う、あ、あ」
小男も格子から遠のき、すでに横たわっていた。
カズは詰め寄る気持ちで言葉を投げかける。
「どうして?」
「・・・ど、ど、どうしてって・・・そ、外に、外に出る必要が、な、、ない、ないからさ・・・」
カズは言葉を紡げないでいた。
慣れない会話で考えが及ばず、何を発していいか分からなくなっていた。
カズの沈黙を察してか、小男が続ける。
「ぼ、ぼ、僕はここで、この、この、このままし、し、し、死ぬんだ・・・き、き、君も、き、き、気をつけなよ・・・」
「何を?」
「な、な、な、何をって?」
「何を気をつけるの?」
「・・・な、な、な、何もかもに、はあ、はあ、き、きま、決まってるじゃないか・・・はあ、はあ、よ、よ、よく生きてこられた、はあ、はあ、も、もんだよ・・・」
小男は話すだけで息切れをし、今にも死んでいまいそうな息遣いであった。
酷く陰惨な空間で、どれくらい対峙しただろう。
これまで必死に生き延びてきた光景が、カズの頭をよぎっていた。
「せ、せ、せ、せっかくだから、ゆ、ゆ、言うけど、僕は・・・そ、そ、外の世界じゃ、生き、生きられない・・・た、だ、だ、だから、こ、こ、ここに、はあ、はあ、か、か、隠れてたんだ」
「隠れてたの?」
「はぁ・・・あ、ああ・・・」
「ずっと?」
「ああ、はぁ・・・、そ、そ、そしてもう、す、す、すぐ、し、死ぬんだ・・・わ、わ、わかるんだ・・・」
「何で隠れてたの?」
「そ、そ、そりゃあ・・・み、身を、ま、守るためさ・・・そ、外は、ろ、碌なもんじゃない、わ、わ、わ。わかるだろ?」
殺るか殺られるかの世界を生き抜いてきたカズには痛いほど理解できた。
小男が言うように、
これまで身を隠せて生きながらえていただけでも奇跡かも知れないと、声に出てしまう程に思った。
「わかった・・・ただ私は雨避けに来ただけ・・・さようなら、死ぬ邪魔をするつもりはないし・・・」
「・・・」
カズは淡々と言い残し、入口へ戻った。
雨音は止んでいる。
風も穏やかだった。
珍しく、申し訳程度の陽の光も射しているようだと感じられた。
野鳥の羽ばたきも耳にする事が出来た。
木々が触れ合う音と今体験した出来事、
カズはなぜ、あんな冷然たる態度をとったのか気になり出していた。
後ろ髪を引かれる思いで振り返る。
この対象的な世界の隔たりに自分はいる、と感じていた。
導かれた洞窟、その先に居た死を待つ小男の存在を思い描く。
自然の摂理に任せるならば、この場を去るのが賢明だとも思った。ただ、天の邪鬼が芽生え、カズは踵を返した。
外音が遠のき、啜り音が徐々に聞こえる。
──再び竹格子の前に舞い戻っていた。
「・・・泣いてるの?」
小男は未だ横たわっていた。
「ほんとに死にたいの?」
カズは本意を知りたがった。
自分には解らない感情だったからだ。
小男はひとしきり
カズも無言で小男の二の句を待った。
もし必要なら、小男の死を見届け、亡骸を埋葬する気持ちも持ち合わせていた。
また、死の介錯を懇願などされたら、どう反応しようかとも思案していた。
二人の間で、言い様のない凪の状態がしばし続き、やがて小男が覚悟を決めた様子で語り出した。
「し、し、し死にたくない・・・し、し、死にたくない、け、け、けど、生きてけ、け、ける、わ、わ、訳がない・・・こ、こ、こ、こんなんだし・・・す、す、すぐ、こ、こ、殺される。だ、だ、だから・・・」
「・・・だから?」
「か、か、か、隠れてた・・・」
カズを遮る格子もしっかり拵えてある。
「こいつが邪魔・・・」
カズは呟いた。
「あたしが出したげる、いい?」
念のため断りを入れてみた。
「・・・む、む、無理さ、す、す、すぐ、し、死ぬし・・・」
「ならいいじゃん、あたし考えがある」
カズなりの答えを出した。
「あたし病気は治せないけど、あんたは守れるよ。その代わり、あたしの人探しを手伝ってよ」
「は?」
小男は事の成り行きを把握できないでいた。
カズの発言の意図すら意味不明であった。
それからカズは構えを取る──。
まず腰を落として前後させた足場を固めた。
そして、左右の腕を交差させ、それぞれの上腕に仕込んでいる短刀の柄を握ろうと脱力姿勢に入る。
「近づくんじゃないよ」
刹那、不動抜剣という型からの〝
ガラガラバラッ──。
小男は何が起こったか分からず、声すら出せなかった。
カズはズンズン奥まで行き、小男の身支度と飲み水などを手探りと感覚で確保する。手に取った物は勝手に取捨選択を決め込む。
乱雑な立ち振る舞いのカズに向かい、ようやく小男は声を発せた。
「い、い、いったい、な、な、なに!?」
カズは意に返さず、小男に言い放つ。
「どうせ死ぬんでしょ?なら、あたしの役に立ってからでもいいでしょ」
「・・・い、い、い、嫌だ・・・」
きっぱり断言されたカズは、不機嫌になり辺りを探る。
「あった」
それは格子にも使われていた縄紐であった。充分な長さを紡ぎ、肩に掛けた。
「ほら、行くよ」
小男に向かって手を差し出す。
「い、い、嫌だ、い、嫌だ!」
「あんた、あたしも手荒な真似はしたくないんだけど・・・」
小男はカズの目にも止まらない早業を目の当たりにしているため、今死ぬか後で死ぬかの選択を迫られているようだった。
──そして、迷わず手を差し出した。
「よし!」
小男はカズのその時のこぼれた笑みを垣間見て、安堵する。
今し方、ただ死を待つだけの日々を過ごし生きた心地も皆無だった者が、痩せ細った手に力を込め対極にある人物の手を握っている。
それは呪縛からの解放と感じ取れた。
そして、今度は差し出されたカズの背中に、疑いもなくしがみ付く事が出来た。
カズは小男を縄紐を用い括り付けると、彼に聞こえるように呟く。
「どれくらいぶり?」
「た、た、たぶん、お、お、覚えのないくらい・・・」
「じゃ、目をつむってな。遠慮してるお天道さんでも眩しいくらいなはずだから」
──人の背中におぶられるなんていつ振りだろう。
──真昼間にここから出るなんていつ振りだろう。
──自分の声を聞き入れてくれたなんていつ振りだろう。
子男は背中で揺られながら、湧き立つ感情を抑えられずにいた。
「イ、イナ、ゾ、ゾウ・・・」
「えっ?」
「ぼ、ぼ、僕は、い、い、稲造」
「あたしはカズ、目くらだから、よろしく」
「う、う、うん」
稲造ははにかみながら、ゆっくり目蓋を起こしてみた。
まだ年端もいかない娘の背中は、思いのほか居心地が良かった。安定していて、振動が苦痛でなかった。いつもより高い視線、異なる風景、そして何より陽の光が全身を昂揚させた。
「・・・い、い、生きたい・・・」
その声は微かな音として、またカズにも届かない程の音として、稲造の心からの声であった。
そして、だんだん遠のく洞窟の口は、あれほど出るのが困難だった時間が嘘のように思え、また黒の最上級の暗黒に見えていた事が夢のように思え、今はケツの穴のように下卑た単なる点にしか映らなくなっていた。
──ちょうどその頃、五人の男達が焚き火の跡を調べていた。
「足跡は辿れないな」
「ああ、雨でやられたな」
傍目では同じ顔の二人が会話をする。
三人目の男は無造作に草木を掻き分け話に割って入った。
「こん中で寝泊まりしていたようですぜ」
四人目の男は荷車を引く大柄な男で空を見上げていたが、荷台に居座る五人目の男は髭を撫ぜつつ難しい顔をしていた。
そしてポツリと呟いた。
「──二つの実は誰が食った?」
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