第三部:永遠の帰郷
冬の冷たい空気が今熊山の麓を包み込んでいた。
木々は静かに揺れ、葉を落とした枝が空に向かって細く伸びている。
「ゴン作さま……まだ、あの山へ行っておられますか?」
若い村人の一人が、古老の元へ静かに尋ねた。
古老は穏やかな目を細め、ゆっくりと頷いた。
「ああ、あの男は毎日、あの山の奥社に通うておる。ヨネの無事を祈り続けてな……もう何年もじゃ」
若者は息を呑んだ。
「でも……ヨネさまは戻られたのですか?」
古老は遠くを見つめるように語り始めた。
「それがな、ある晩、不思議なことがあったんじゃよ」
それは、今から半世紀も前の話。
ゴン作の妻、ヨネは山の中で忽然と姿を消した。誰もその所在を知らず、村は悲嘆に暮れた。
「毎晩、ゴン作は今熊神社の奥社に詣で、ヨネが帰るよう祈り続けた。
ある夜、戸を叩く音がしたそうじゃ。ゴン作が急いで戸を開けると、そこに立っていたのは……ぼんやりとしたヨネの姿だった」
若者は驚きの声を漏らした。
「それで、ヨネさまは本当に帰ってきたのですか?」
古老はにっこり笑った。
「うむ、ゴン作は大いに喜び、何度も今熊山の神にお礼参りをしたそうじゃ。
ふたりは再び夫婦となり、仲良く暮らした。時は流れ、ふたりは年老いていったが、幸せだった」
その後の話を古老は静かに語った。
「しかしヨネはある日、葬儀の後に村から姿を消した。
四十五日目に山から呼ばれたのだろうと村人は噂した。
その後、ヨネに似た若い女性が他の村で若衆と夫婦となったという。
時は流れ、ふたりはまた年を取り、死の間際に若衆はヨネに言ったのじゃ。
『ヨネよ、お前が女房で幸せじゃった。あの世でも一緒になろうな。
あの世で待っておるぞ』と」
古老の声は静かに震えた。
「その葬儀のあと、またヨネの姿は見えなくなった。
ヨネはまるでこの世の者ではないかのように、誰にも生い立ちを知られぬままに消えたのじゃ」
若者は言葉を失い、目を伏せた。
「ヨネさまは……まるで神話のような存在ですね」
古老は頷き、語りを続けた。
「そうじゃ、ヨネはただの人間ではなかった。
三千の世界を彷徨い、無数の時代を超え、数多の愛と別れを繰り返してきた、時空の旅人だったのじゃ」
その夜、若者は夢を見た。
夢の中で、薄暗い森の奥から静かな声が聞こえた。
「戻るのじゃ……戻らねばならぬ」
彼が歩を進めると、かすかな光の中に、透き通るような美しい女が現れた。
その眼は深い闇のように静かで、しかし暖かい光を放っていた。
「私はヨネ。数千年の時を超えてきた者。
愛する者を待ち続け、失われた魂を呼び戻す者。
あなたの祈りは私に届いておる」
若者は恐る恐る尋ねた。
「どうして……そんなことができるのですか?」
ヨネは微笑んだ。
「山の呼び声に応え、心の深淵から魂を呼び覚ます。
それが『呼わばりの山』の力。
割れた茶碗は失われた者の痕跡であり、祈りの象徴。
割ることで、魂の道が開くのじゃ」
「でも、なぜあなたは永遠に生きるのですか?」
ヨネの眼に哀しみが宿った。
「私は死ぬことが許されなかった。
かつて多くの男を愛し、その罰かもしれぬ。
だが、この永遠の命は、人の絆を守るための使命となった。
私の旅は終わらぬ。永遠に彷徨い、帰るべき場所を探し続ける」
夢の中で、若者はヨネの言葉に胸を締めつけられた。
「でも……いつか、あなたは安らぐ時が来るのですか?」
ヨネは静かに頷いた。
「それは、誰かが真に帰るべき場所を見つけた時。
そして、私もまた、永遠の旅を終える時。
だがそれは、まだ遠い未来の話じゃ」
翌朝、若者は目覚めて、心に新たな決意を抱いた。
「呼わばりの山は、ただの伝説ではない。
人の心の奥底にある愛と希望の証だ。
私もまた、失くしたものを呼び戻す力となろう」
村に戻ると、彼は茶碗の欠片を手に今熊山へ向かった。
山頂で深く祈り、割れた茶碗の破片を静かに置いた。
その時、風が柔らかく吹き抜け、山の木々がざわめいた。
まるでヨネの囁きが聞こえたようだった。
「ありがとう……あなたの祈りは届いている」
今熊山は今日も静かに、失われた魂の帰る場所として、
そして待つ者の心の灯火として在り続けている。
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