第二部:時を彷徨う女 第8章 ヨネという名の寓話
その村には、ときどき「ヨネ」という名を持つ女が現れる。
年頃は二十歳前後、白い肌、切れ長の目に長い黒髪。
よそ者のはずなのに、どこか懐かしさを感じさせる女。
彼女は必ず祠に詣で、山頂で茶碗をひとつ割って消える。
村の古老たちは、彼女の名を口にするとき、慎重だった。
「ヨネ……あれは、もう人じゃないかもしれん」
「呼ばれとるんじゃなく、自分が“呼ぶ側”になっとるのかもしれん」
ヨネの名は、やがて村の子供たちの寝物語になった。
— 迷子になったら、ヨネが山で呼んでくれる。
— 失くしたものがあるなら、ヨネが見つけて届けてくれる。
— 大切な人を失ったなら、ヨネがその声を拾ってあの世まで届けてくれる。
それは恐れと共に語られる話でもあった。
— ヨネに呼ばれると、二度と帰ってこられない。
— 夜中に戸を叩く音がしたら、それはヨネの招き。
— 一度でも山の茶碗を壊したら、あの山に魂を取られる。
こうしてヨネは人々の間で「存在」から「寓話」へと変わっていった。
けれど、その伝説の背後には、幾度も人知れず山へ登り、祠に祈った者たちの思いがあった。
ある者は行方知れずの弟を。
ある者は若くして亡くなった娘を。
ある者は自ら命を絶った妻を——
彼らが手にして割った茶碗には、それぞれの“願い”が込められていた。
そして、その願いのなかに、ヨネは何を感じていたのか。
彼女自身にもわからなかった。
ただひとつ、確かなのは——
ヨネは祈りに引かれ、茶碗の音に導かれ、再び現れるということだった。
その夜、今熊山の祠のそばに、またひとつ、新しい茶碗が割れていた。
割れた器の破片の間に、小さな紙切れがひらりと落ちていた。
こう書かれていた。
ヨネ様へ
おかあを返してほしいです。
たけし
幼い字だった。
その夜、村の一軒の家で、何年も行方知れずだった母親が戻ったという。
ボロをまとい、足を引きずっていたが、確かに“生きて”いた。
ヨネの姿は、誰も見ていない。
しかし——
誰もがこうつぶやいた。
「……ヨネが、呼んでくれたんじゃな」
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