第二部:時を彷徨う女 第7章 茶碗を割る音
今熊山の山頂にある小さな祠——
その裏手には、いくつもの茶碗が転がっていた。
割れたもの、欠けたもの、まだ原型をとどめるものもある。
それらは、誰かの祈りの形だった。
ゴン作はそのことを、祖父から聞かされていた。
「失せた人を戻したけりゃ、この山に来て、あの祠の裏で茶碗を割れ」
「それは“声を届ける”ための儀じゃ」
「茶碗が割れる音が、あの世へ、時の狭間へ、迷い人の魂へ届くんじゃ」
信じるも信じぬも人それぞれ。
だが、ゴン作は信じた。
祖母がそうして祖父を戻したと聞かされていたからだ。
そして、ある年の春。
村にひとりの旅人が訪れた。
異国の顔立ちに和装、どこか浮世離れした雰囲気の女。
名前はヨネ、と名乗った。
ゴン作はその名に胸を突かれた。
それは昔語りの中に何度も出てきた名。
祠から帰ってきたという、伝説の女の名だ。
ヨネは村にしばらく滞在すると言い、草仕事を手伝いながら静かに暮らし始めた。
年の頃は二十代半ば、瞳は黒曜石のように深く、どこか影を帯びていた。
ある日、ヨネが山に登ると言い出した。
ふもとの老婆が問うた。
「何しに山へ登るんだえ?」
ヨネは微笑みながら、こう言った。
「忘れ物を拾いに」
その日の夕暮れ、ゴン作もまた山に登った。
祠の前で立ち尽くすヨネの背を見つけたのは、そのときだった。
ヨネは一枚の茶碗を手にしていた。
薄手で、小花が描かれている——昔の山茶碗だった。
「それは……?」
「昔、ここに置いた気がするの。でも、割らずに帰ってしまったのかもしれない」
ヨネは静かに地面に膝をつき、茶碗を持ったまま両手を合わせた。
そのまま、何かを呟いたあと、手のひらを開き、岩に打ちつけた。
パリィン——
乾いた高い音が、夕暮れの山に響いた。
鳥が一斉に羽ばたき、風が木々の間を駆け抜ける。
そのとき、ゴン作は見た。
祠の奥から、うっすらと光が立ちのぼるのを。
ヨネの肩が、微かに震えていた。
泣いているのか、喜んでいるのか、わからなかった。
ただ、その姿は、
長い時を彷徨い、ようやく“呼び声”を聞いた者のようだった。
そしてその日を境に、ヨネは姿を消した。
どこへ行ったのか、誰にもわからなかった。
祠の裏には、ひとつだけ新しい割れた茶碗が残されていた。
絵柄は、小さな青い鶴。
まるで、自由を得た魂が羽ばたいたかのように。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます