第二部:時を彷徨う女  第6章 ゴン作の祈り、再び

今熊山のふもとの村に、ゴン作の名を継ぐ男がいた。

名も同じく「ゴン作」。

それは代々、家の男がひとりずつ名乗る家系の習わしだった。


このゴン作は、曾祖父にあたる初代のゴン作と似たところが多く、

ぶっきらぼうで無口だが、まじめに田畑を耕す働き者であった。


ある年のこと。

春が来ても、妻のトメが戻らなかった。


山に山菜を採りに行くと言って出たきり、どこを探しても見つからない。

村中が総出で山を探したが、衣の端ひとつ落ちていなかった。


ゴン作は無言で山に登った。

それも一度や二度ではない。

夜明けとともに登り、夕暮れまで祠の前で正座し、手を合わせた。


「トメを返してくれ……あの山に呑まれたんじゃろ。どうか、どうか返してくれ」


そして、ある晩のこと。

ゴン作が囲炉裏の火を落とし、ひとり寝床に入ったときだった。


トン、トン……

戸をたたく音がした。


ゴン作は目を見開いた。

夜更けの誰かの訪いなど、まずあるはずがない。


「……トメか?」


戸の向こうには、女が立っていた。

痩せこけ、服は土にまみれ、髪は乱れていた。

それでも、その姿は確かにトメだった。


「……おかえり」


ゴン作はそれしか言えなかった。

涙も出なかった。ただ、あたたかい湯を沸かし、彼女の足を洗い、汁を作った。


翌朝、村人たちは驚いた。

消えたはずのトメが、平然と家の前を掃いていたからだ。


誰もが噂した。

「やっぱり呼ばわりの山じゃ。あの山に祈れば、消えた者も戻る」


だが、トメは何も語らなかった。

何を見たのか、何があったのか、一言も口にしなかった。


ただひとつだけ、ぽつりと漏らしたことがあった。


「……山の奥にね、誰かがいた気がするの。若い娘の声がして……“ヨネ”って、自分の名前を呼んでいた」


ゴン作はその名に聞き覚えがあった。

祖父から聞かされた古い話——

初代のゴン作が、山から帰ってきた女の話を何度もしていた。


「ヨネは、山から来た女じゃった。呼ばれて、帰ってきた女じゃった」


時が流れても、名は消えなかった。

“ヨネ”はまだ山にいる。

時を超えて、名を忘れても、誰かの呼び声に応えている。


ゴン作はふと、山を見上げた。

雲が流れ、祠が遠く白く輝いて見えた。


あの山には何があるのか。

誰がいるのか。

何を呼び、何を返すのか——


答えはまだ、山の中。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る