第二部:時を彷徨う女 第4章 ヨネという名の記憶
ヨネは歩いていた。
荒れ果てた草原を、薄紅の空の下を、足が向くままに。
ここがどこの世界なのか、何という時代なのか、もはや彼女には重要ではなかった。
ただ、歩くこと。
それが唯一、自分が「まだ存在している」と確かめる手段だった。
——気づけば、名前以外のすべてが、薄れていた。
誰の娘だったか。どこで生まれたか。
ゴン作という名の男と生きたことも、遠い夢のように霞んでいた。
「……わたしは、誰だった?」
風に問いかけても、答えは返ってこない。
けれど、不思議と名だけは忘れられなかった。
「ヨネ」という名。それだけが、胸の奥の火種のように残り続けていた。
ある日、雪の降る国で人々に出会った。
白無垢のような衣をまとい、どこから来たのか尋ねると、「あんた、雪女じゃろ?」と笑われた。
またある時、竹林に降り立つと、男がヨネを見てこう言った。
「鶴じゃ……わしが助けた鶴が人に化けて恩返しに来てくれたんじゃ……」
ヨネはただ微笑み、黙ってその村を去った。
彼らにとってヨネは、"語られるべきもの"であって、"共に生きるべきもの"ではなかった。
ヨネは、世界を渡っていた。
時間を超え、空間を越え、気がつけば三千世界を彷徨っていた。
船にも乗った。
1912年、北大西洋を航行するタイタニック号——その処女航海にも彼女はいた。
西洋のドレスに身を包み、「ローズ」と名乗り、英語も流暢に話していた。
気品があり、人種不詳な美貌を持つ女。
金持ちの婚約者と共に乗り込んだ船で、ひとりの青年——名をジャックと言った——と恋に落ちた。
だが、愛はヨネの中で燃え上がるたび、必ず終焉を迎えた。
船は沈み、男は冷たい海に沈んでいった。
それでもヨネは生きていた。
何があっても、死ぬことができなかった。
崖から飛び降りたこともある。
冷たい川に身を投げたことも。
首を吊り、薬を飲み、電車に飛び込んだこともある。
だが——死ねなかった。
命が終わらない。
いや、終えることが許されていない。
それが「呼ばれた者」の運命なのか。
「これは……罰なのかしら」
ヨネは、これまで愛した無数の男たちを思い出した。
愛しても、結ばれても、必ず先に逝かれてしまう。
そして自分は、また名を変え、時を変え、別の誰かと再び夫婦になり……そしてまた失う。
生まれず、老いず、死なず。
輪廻の外に取り残された魂——それがヨネだった。
暗く冷たい風が、ヨネの胸を通り抜けていく。
記憶の断片がまたひとつ、塵となって流れていく。
そして彼女は、また歩き出した。
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