第38話 託された想い、遠い空への祈り

バルドス騎士が残した不穏な言葉は、春の長雨のように、私の心にしつこく降り続いていた。アルメリア王国を包む「大きな闇」。その正体も掴めぬまま、ただ故郷を案じる日々は、穏やかなハルモニアの日常の中に、一抹の影を落としていた。


アランへ手紙を書くと決めたものの、いざペンを手に取ると、何から書き出せばよいのか言葉がなかなか見つからなかった。彼に最後に会ったのは、あの王宮を脱出した夜。あれから季節は巡り、私はハルモニアの薬草師リリアーナとして、新しい人生を歩み始めている。その近況を伝えるべきか、それともすぐに本題である王国のことを尋ねるべきか。


「エルマさん……アランへの手紙なのですが、どんな書き出しが良いと思われますか?」


工房で薬草の選別をしていたエルマさんに、思わず相談してしまった。エルマさんは、私の戸惑いを察したように、優しく微笑んだ。


「きっと、リリアーナさんの素直なお気持ちを綴れば、アラン様にも伝わりますわ。まずは、お元気でいらっしゃることをお知らせするのが良いのではないでしょうか」


その言葉に背中を押され、私は改めて羊皮紙に向かった。ハルモニアでの暮らし、大切な仲間たちとの出会い、そして「リリアズ・ハーブ」という小さなお店を持てたこと。そして最後に、王国で何か不穏な動きがあるのではないかと案じていること、もし何か知っていることがあれば教えてほしい、と書き添えた。


しかし、問題はどうやってこの手紙を、今も王宮騎士団にいるであろうアランへ届けるかだ。普通の郵便で送れるようなものではない。私が一人で思い悩んでいると、ギデオンさんが「リリアーナ、その手紙のことだがな」と声をかけてきた。


「俺の古い知り合いで、あちこちの国を渡り歩いてる老商人がいるんだ。口が堅くて、腕も立つ。近々、アルメリア王国の国境近くまで行く用事があるらしい。もし、お前さんがそいつを信用できるなら、手紙を託してみるのも一つの手かもしれん。ただし、時間はかかるだろうし、確実に届くという保証もねえがな」


危険を伴うかもしれない申し出。けれど、今の私にとっては、それしか術がないように思えた。


「ギデオンさん、ありがとうございます……!ぜひ、その方にお願いしたいです」


私の切実な願いに、ギデオンさんは黙って頷き、数日後、その老商人を「樫の木亭」へ連れてきてくれた。歳の頃は六十を過ぎているだろうか。日に焼けた顔には深い皺が刻まれ、その瞳は多くのことを見てきたであろう賢者のような光を宿していた。老商人は、私の手紙を黙って受け取ると、「お嬢さんの大切な想い、確かに預かりましたよ。道中の安全は、この老いぼれの経験にかけてお約束しましょう」と、静かに、しかし力強く言ってくれた。


老商人がハルモニアを旅立っていく後ろ姿を、私はいつまでも見送っていた。どうか、この想いがアランの元へ無事に届きますように、と。


アランからの返事を待つ間も、「リリアズ・ハーブ」の日常は変わらず続いていく。薬草畑では、春に蒔いた種が力強く芽を出し、ハーブたちが日に日に成長していく。トマさんは、その知識を活かして有機的な肥料を試作したり、害虫がつきにくいハーブをコンパニオンプランツとして植えたりと、畑の改良に余念がない。リナちゃんは、薬草教室のアシスタントを務める中で、子供たちに薬草の名前や簡単な効能を教えるのがすっかり上手になり、彼女目当てで教室に参加する子供もいるほどだった。


私も、新しい薬膳菓子の開発や、常連のお客様との会話、そして時折ドクター・エルリックの診療所へ顔を出しては、健康相談の補助をするなど、ハルモニアの薬草師としての役割に心を注いだ。この町での生活は、私にとってかけがえのないものであり、一日一日が愛おしい。この平和を守りたい。その想いは、日増しに強くなっていた。


しかし、ふとした瞬間に、故郷アルメリア王国のことが脳裏をよぎる。父王の厳格な横顔、母王妃の憂いを帯びた瞳。そして、私が王女であった頃に感じていた、民を思う責任。それは、ハルモニアでの穏やかな生活の中にあっても、決して消えることのない、私の根幹を成すものなのかもしれない。


そんなある日、ギデオンさんの情報網とは別のルートから、アルメリア王国に関する新たな噂が私の耳に入ってきた。ハルモニアに立ち寄った、王都方面から来たという旅の楽師が、酒場でこんな話をしていたというのだ。


「アルメリアの王都は、なんだか物々しい雰囲気だったな。高名な宰相が突然の病で倒れ、その後釜を巡って、いくつかの貴族派閥が水面下で激しく争っているとか……。民衆の間では、その宰相の病も、実は毒殺なんじゃないかって噂まで立ってる始末さ」


宰相の急病、そして貴族間の権力闘争。それは、バルドスが言っていた「大きな闇」の具体的な現れなのだろうか。民衆の間で不満が高まっているという話も、私の心を重くさせた。


手紙を託した老商人がアルメリアへ向かってから、すでに一月以上が過ぎていた。まだ、アランからの返信はない。焦燥感が募る一方で、私は自分にできることを続けるしかなかった。ハルモニアでの生活を守ること。そして、もし故郷が本当に危機的な状況にあるのなら、その時、私に何ができるのかを考え続けること。


季節は春から初夏へと移り変わり、薬草畑の緑が一層深みを増していく。太陽の光を浴びて力強く成長するハーブたちのように、私の心の中にも、どんな未来が待ち受けていようとも、自分の信じる道を進むのだという、新たな決意の種が、静かに、しかし確実に蒔かれていた。


「王女」としての責任と、「ハルモニアの薬草師リリアーナ」としての幸せ。その二つを、私はいつか必ず両立させてみせる。そう、心に誓いながら。

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