第37話 残響する警告、故郷への憂い

バルドス騎士たちがハルモニアの町から退却した翌朝、私たちの「リリアズ・ハーブ」は、いつもと変わらぬ穏やかな光の中で営業を再開した。昨夜の激しい攻防がまるで夢であったかのように、町には小鳥のさえずりが響き、薬草畑のハーブたちは朝露に濡れてキラキラと輝いていた。けれど、私の心の中には、バルドスが残していった「王国を包む大きな闇」という言葉が、不協和音のように鳴り響き続けていた。


「リリアーナさん、顔色が優れませんわ。昨夜はあまり眠れなかったのでしょう?少し休まれた方が……」


エルマさんが、心配そうに私の顔を覗き込んできた。トマさんもリナちゃんも、言葉には出さないけれど、不安げな眼差しを私に向けている。


「ありがとう、エルマさん。でも、大丈夫よ。お客様をお迎えしなければ」


私は無理に笑顔を作ってみせたが、心の重苦しさはなかなか消えなかった。ハルモニアでの平和な生活を守り抜けたという安堵感と、故郷アルメリア王国への言いようのない不安が、私の胸の中で渦巻いていた。


ギデオンさんは、私のそんな様子を察してか、その日の午後、工房で薬草の整理をしている私に、そっと声をかけてきた。


「リリアーナ、あの騎士の言葉、気に病んでるんだろ。無理もねえ。あんな捨て台詞を残していきやがったんだからな」


私は黙って頷いた。


「あの言葉……ただの脅しとは思えませんの。バルドス騎士の目には、確かに何かを知っているような、そして私を憐れむような色が浮かんでいた気がするのです」


「そうか……。よし、リリアーナ。俺の持ってる情報網を使って、アルメリア王国の最近の様子を探ってみよう。商人仲間や、あちこちを旅してる連中に聞けば、何か掴めるかもしれん」


ギデオンさんの申し出は、暗闇の中に差し込んだ一筋の光のように思えた。


それから数日間、私は「リリアズ・ハーブ」の仕事をこなしながらも、心のどこかで故郷のことを考え続けていた。父王の厳格だが公正だった姿、母王妃の優しい微笑み、そしていつも私の味方でいてくれた侍女のマリー……。私が逃げ出したことで、彼らはどうしているだろうか。そして、バルドスが言っていた「大きな闇」とは、一体何を指しているのだろうか。王宮にいた頃の記憶を必死に辿り、父王の側近たちの顔ぶれや、貴族たちの間の複雑な力関係、そして私との政略結婚を強引に進めようとしていた強硬派の貴族たちの顔を思い浮かべた。


その間にも、ギデオンさんは精力的に情報を集めてくれていた。ハルモニアを訪れる旅の商人や吟遊詩人、遠方からの行商人など、あらゆる繋がりを駆使して、アルメリア王国の断片的な噂を拾い集めてくる。そして、もたらされる情報は、私の不安を裏付けるかのように、不穏なものばかりだった。


「リリアーナ、どうやらアルメリアの国王陛下……つまり、お前さんの父上だが、近頃ご病気がちで、政務もままならない状態らしい」


「それに、王国内では、いくつかの有力貴族が力を増してきていて、後継者争いのような不穏な動きもあるとか……」


「グランスター帝国との関係も、依然として緊張が続いているようだ。国境付近では、小競り合いが絶えないという噂も聞いたぜ」


それらの情報は、どれも確かなものではなかったけれど、パズルのピースが一つ一つはまっていくように、バルドスの言葉の信憑性を高めていった。私が逃げ出した故郷は、今、大きな困難に直面しているのかもしれない。その事実は、私の胸を締め付けた。


私の苦悩を察したエルマさんは、何も聞かず、ただ静かに私のそばにいてくれた。彼女の淹れてくれる温かいハーブティーは、冷えた私の心を少しずつ溶かしてくれるようだった。トマさんは、黙々と薬草畑の手入れをしながら、時折、私が心を落ち着かせる効果のある珍しいハーブを見つけては、そっと工房の私の机の上に置いてくれた。リナちゃんは、持ち前の明るさで店の雰囲気を盛り上げ、「リリアーナさん、難しい顔は似合いませんよー!ほら、新作のハーブクッキー、味見してください!」と、私を元気づけようと必死だった。


大切な仲間たちの優しさに触れるたび、私はこのハルモニアでの平和な生活を守りたいと強く願う。けれど同時に、故郷の危機を座視していて良いのだろうかという、新たな葛藤が芽生え始めていた。私はもう王女ではない。けれど、アルメリアは私の生まれた国であり、そこには今も私の愛する人々がいるのだ。


ある雨の日の午後、私は一人、工房で古い羊皮紙の地図を広げていた。それは、アランが王宮を脱出する際に私に渡してくれた、アルメリア王国とその周辺国の地図だった。ハルモニアからアルメリア王国の王都までは、どれほどの距離があるのだろうか。そして、今の私に、何かできることがあるのだろうか。


すぐに答えが出るはずもない。けれど、私はもう、ただ運命に流されるだけの存在ではいたくなかった。ハルモニアでの生活を守りながらも、故郷の状況をより詳しく知るための方法を探らなければならない。そして、もし本当に助けを必要としている人がいるのなら……。


雨音が静かに工房の屋根を叩く中、私はアランに手紙を書くことを決意した。彼ならば、王国の今の状況について、何か知っているかもしれない。そして、もしもの時には、私の力になってくれるかもしれない。彼への手紙をどうやって届けるか、という大きな問題はあったけれど、それでも、何もしないでいるよりはずっと良い。


私の胸の奥で、小さな、しかし確かな決意の炎が再び灯り始めていた。ハルモニアでの穏やかな日常と、遠い故郷の運命。二つの間で揺れ動きながらも、私は自分の信じる道を、仲間たちと共に歩んでいくしかないのだ。

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