第36話 ハルモニアの夜戦、薬草と勇気の協奏曲

月が冴え冴えとハルモニアの町を照らす夜、約束された嵐は、ついにその姿を現した。町の広場に、黒い影のように静かに集結したのは、バルドス騎士とその部下たち。前回よりも明らかに人数を増やし、その全身からは有無を言わせぬ威圧感が放たれていた。


広場の中央には、私、リリアーナ、そしてギデオンさん、エルマさん、トマさん、リナちゃん。私たちの背後には、町長と自警団の屈強な男たちが固い表情で控えている。そして、その周囲を、松明や農具を手にしたハルモニアの町の人々が、息を殺して遠巻きに見守っていた。夜風が、張り詰めた空気と、土埃の匂いを運んでくる。


「今宵こそ、リリアーナ・フォン・アルメリア王女殿下には、我々と共にご帰還願います。これ以上の抵抗は、この町にとっても、あなた自身にとっても、賢明な選択とは言えませんぞ」


バルドスは、月光を反射する剣の柄に手を置き、冷たく言い放った。その声には、もはや交渉の余地はないという最終通告のような響きがあった。


私は一歩前に進み出て、彼の目をまっすぐに見据えた。


「バルドス騎士、何度申し上げたらお分かりいただけますか。私はリリアーナ。ハルモニアの薬草師です。この町と、ここにいる人々が、私の全てです。あなた方と共に行く理由は、何一つございません」


私の声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。恐怖よりも、愛するものを守り抜きたいという強い意志が、全身を貫いていた。


「ならば、力でその意志を砕くまで!」


バルドスが右手を高く上げ、部下たちに突撃の合図を送ろうとした、その瞬間だった。


「今です!」


私の合図と共に、トマさんが指示を飛ばす。広場の風上に潜んでいた自警団の若者たちが、一斉に布袋を投げつけた。中身は、私たちがこの日のために準備した、トウガラシと数種類の刺激性ハーブを乾燥させて細かく砕いた特製の催涙粉末だ。夜風に乗ったそれは、的確に騎士たちの顔面を襲った。


「ぐっ、うわっ!目が、鼻が……!」


「へ、へっくしょん!止まらねえ!」


馬上で騎士たちが激しく咳き込み、くしゃみを繰り返し、目を押さえて混乱に陥る。その隙を逃さず、リナちゃんと町の女性たちが、馬が嫌う強烈な匂いを放つハーブを燻した松明を、馬たちの足元へと投げ入れた。馬たちはその異臭に怯え、嘶き、暴れ始める。


「な、何事だ!落ち着け!」


バルドスは怒声で部下を叱咤するが、混乱は収まらない。ギデオンさんと自警団の男たちが、農具や棍棒を手に、馬から落ちたり、動きが鈍ったりした騎士たちに果敢に打ちかかっていく。それは、殺傷を目的としたものではなく、あくまで彼らの戦意を削ぎ、動きを封じるための、ハルモニア流の「おもてなし」だった。


エルマさんは、負傷者が出ることに備え、薬草を詰めた救急箱を手に、冷静に戦況を見守っている。


「リリアーナさん、あちらの騎士が馬から落ちました!手当てが必要かもしれません!」


「エルマさん、ありがとう!でも、まだ近づかないで。トマさん、あの辺りに、もう一発『眠り猫の欠伸』をお願いできるかしら?」


眠り猫の欠伸とは、私が名付けた、強い眠気を誘うが体に害のないハーブの煙だ。トマさんは黙って頷くと、用意していた特別な配合のハーブを火種に投げ込み、煙をバルドスたちが密集している方向へと扇いだ。


バルドスは、この予想外の、そしてあまりにも組織的なハルモニアの抵抗に、明らかに焦りの色を見せていた。屈強な騎士たちが、ただの町民と、そして薬草という見慣れぬ「武器」の前に、こうも容易く翻弄されるとは、彼の計算にはなかったのだろう。


「おのれ、田舎者どもが……!このような卑怯な手を使いおって!」


「卑怯とは、どちらのことでしょう、バルドス騎士」


私は、混乱の中心にいるバルドスに向かって、静かに、しかし凛とした声で語りかけた。


「力で人を従わせようとすること、それが王国の、そしてあなたの正義なのですか?私は、このハルモニアで、薬草の力で人々を癒やし、笑顔にすることに喜びを見出しました。それは、王宮では決して得られなかった、私にとってかけがえのない宝物なのです。あなた方は、それを奪おうとしているのですよ」


王女だった頃、父や大臣たちの間で交わされる政治の駆け引きや、民の幸せとは何かという議論を、私はただ黙って聞いていた。けれど、その時の思いが、今、私の言葉となって溢れ出てくる。


「もし、本当に王国の未来を案じるのであれば、力ではなく、対話で解決の道を探るべきではありませんか?私を無理やり連れ戻したとして、そこに真の平和や、誰かの幸福があるのでしょうか?」


私の言葉は、夜の静寂の中に吸い込まれていった。バルドスは、煙と混乱の中で、苦々しい表情で私を睨みつけていた。彼の部下たちは、もはや戦意を失い、地面にうずくまったり、馬上でふらついたりしている者もいる。


その時、広場の入り口から、松明を持った町長と、さらに多くの武装した(といっても農具だが)町の人々が現れた。


「バルドス騎士殿、もうお分かりでしょう。ハルモニアの町は、リリアーナ殿をあなた方には渡しません。これ以上の狼藉は、町の自治に対する重大な挑戦と見なしますぞ」


町長の言葉は、静かだが揺るぎない決意に満ちていた。


四面楚歌。バルドスは、ついに観念したかのように、深くため息をついた。そして、忌々しげに私を一瞥すると、こう言い放った。


「……リリアーナ・フォン・アルメリア……今日のところは、退いてやる。だが、覚えておけ。王国の権威は、必ずやお前を捉えるだろう。そして……お前が逃げ出した王国は今、お前が思うよりもずっと大きな闇に包まれようとしている。今回の我々の動きも、そのほんの一端に過ぎんのかもしれんぞ……」


その謎めいた言葉を残し、バルドスは辛うじて体勢を立て直した部下たちと共に、ハルモニアの町から撤退していった。その背中には、もはや最初の威圧感はなかった。


彼らの姿が闇に消えると、広場は一瞬の静寂の後、大きな歓声に包まれた。町の人々は、互いの肩を叩き合い、勝利を喜び合った。私は、ギデオンさん、エルマさん、トマさん、リナちゃんと共に、その輪の中心で、ただただ感謝の涙を流していた。私たちは、ハルモニアを守り抜いたのだ。


しかし、私の胸には、バルドスの残した言葉が重く突き刺さっていた。「王国を包む大きな闇」。それは一体何を意味するのだろうか。私の戦いは、まだ終わってはいないのかもしれない。


夜明け前の空が白み始め、ハルモニアに朝の光が差し込もうとしていた。守り抜いた平穏と、しかし拭いきれない新たな不安。私は、この愛すべき町と仲間たちと共に、次なる試練にも立ち向かう決意を、静かに固めていた。

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