第34話 ハルモニアの盾、薬草師の戦い

店の外から聞こえてくるバルドス騎士の傲慢な声に、私は一度だけ強く目を閉じた。そして、隣に立つエルマさん、背後に控えるトマさん、リナちゃんの顔を順に見渡し、彼らの瞳に宿る揺るぎない信頼と決意を確かめると、静かに頷いた。もう、逃げも隠れもしない。


「行きましょう。お客様をお迎えする時間ですわ」

私がそう言って工房の扉を開けると、春の日差しの中に、バルドス騎士とその二人の部下が、まるで黒い壁のように立ちはだかっていた。その威圧的な空気に、リナちゃんが小さく息を呑むのが分かった。


「ようやくお出ましのようだな、リリアーナ・フォン・アルメリア王女殿下。我々と共に、速やかにご帰還願いたい」


バルドスは、鞘に収まったままの剣の柄に手をかけ、高圧的な口調で言い放った。


私は、彼の言葉に怯むことなく、一歩前に出た。

「私はリリアーナ。ハルモニアの町で『リリアズ・ハーブ』を営む薬草師です。あなたがお探しの王女リリアーナは、もうここにはおりません」


その声は、自分でも驚くほど落ち着いていて、どこか遠い昔に捨ててきたはずの、王族としての矜持のようなものが、ほんの少しだけ滲んでいたかもしれない。


私の返答に、バルドスは眉をひそめ、嘲るような笑みを浮かべた。


「ほう、薬草師ごっこはもうおしまいかな?これは、アルメリア王国、いや、大陸全体の平和に関わる重要な使命だ。殿下の我儘で、それを反故にすることは許されん。大人しく我々に従うなら、乱暴な真似はせんでもないが……」


彼がじり、と一歩踏み出そうとした瞬間、店の入り口にどっかと立ちはだかったのは、ギデオンさんだった。


「おいおい、騎士様方。ここはアンタらの威張れる場所じゃねえぜ。このハルモニアの町で、俺の可愛い看板娘に手荒な真似をしようってんなら、このギデオン様が黙っちゃいねえ!」


その言葉を皮切りに、エルマさんも私の隣にすっと立ち、「リリアーナさんは、私たちの、そしてこの町の大切な人です。無理強いはさせませんわ」と、穏やかながらも強い意志を込めて言った。トマさんとリナちゃんも、私の両脇を固めるようにして、無言の抵抗を示している。


バルドスは、私たちの予想外の抵抗に、わずかに顔を歪めた。


「……愚かな。所詮は辺境の田舎者どもか。ならば、力ずくででもお連れするまでだ!」


彼が部下に目配せをし、まさに強硬手段に出ようとしたその時だった。


「待った、待った!何事だね、騒々しい!」


どこからともなく現れたのは、ハルモニアの町長と、数人の自警団の男たちだった。そして、その騒ぎを聞きつけた市場の商人や、近所の住民たちが、あっという間に「リリアズ・ハーブ」の周囲を遠巻きに取り囲み始めていた。


「リリアーナちゃんに何かあったのかい!?」


「あいつら、リリアーナちゃんをいじめに来たのか!」


口々に上がる声には、明らかにバルドスたちへの敵意と、私への庇護の念が込められている。


バルドスは、集まってきた町の人々の数とその剣幕に、さすがに少しだけ狼狽の色を見せた。


「……お前たち、一体何者だ。これは、王国の正式な……」


「正式な、何ですかな?」町長が、冷静な、しかし威厳のある声で問い返した。「ここは、平和なハルモニアの町ですぞ。リリアーナ殿は、我々にとってかけがえのない存在。薬草の知恵で、多くの町民の健康を支え、子供たちにも優しく接してくれる、心優しい女性だ。そのような方を、理由も告げずに力ずくで連れ去ろうなどとは、断じて許すわけにはいかんな」


町長の言葉に、周囲の町の人々も「そうだ、そうだ!」「リリアーナちゃんを渡してたまるか!」と声を上げる。その結束力は、バルドスが予想していた「辺境の烏合の衆」とは明らかに異なっていた。


その時、私が懐に忍ばせていた小さな革袋から、風上に向かってそっと中身を撒いた。それは、トウガラシの粉末と、乾燥させて細かく砕いた特定の刺激性の強いハーブを混ぜ合わせた、特製の「くしゃみ催涙粉」だった。無害ではあるが、吸い込むと強烈なくしゃみと涙が止まらなくなる。


「へ、へっくしゅん!」「ぐ、目が……!」


風向きを計算して撒いた粉は、見事にバルドスとその部下たちの顔面を直撃した。彼らは突然の刺激に目を押さえ、激しくくしゃみを繰り返し始めた。その隙に、トマさんが素早く動き、部下の一人が落とした剣を遠くへ蹴り飛ばす。リナちゃんは、いつの間にか集まっていた子供たちを、エルマさんと一緒に安全な店の奥へと誘導していた。


「おのれ、小賢しい真似を……!」


涙目で顔を真っ赤にしながらも、バルドスはなおも私を睨みつけた。しかし、周囲を取り囲むハルモニアの町の人々の数はさらに増え、彼らの手には鍬や鋤、中には肉屋の大きな包丁まで握られている。もはや、力ずくで私を連れ去ることは不可能だと、バルドスも悟らざるを得なかったのだろう。


「……覚えていろ、リリアーナ・フォン・アルメリア。必ずや、貴様を王国へ連れ戻し、その使命を果たさせてみせる。今日のところは、退いてやる……」


バルドスは、それだけ言い捨てると、まだくしゃみの止まらない部下たちを引き連れ、町の人々の厳しい視線の中を、ほうほうの体で退却していった。

彼らの姿が見えなくなると、周囲から大きな歓声と拍手が沸き起こった。


「やったぞ、リリアーナちゃん!」


「よくやった、ギデオン!」


町の人々は、まるで自分たちの勝利のように喜び、私やギデオンさん、そしてエルマさんたちを称えてくれた。私は、その温かい光景に、ただただ涙が溢れるのを抑えることができなかった。自分のために、こんなにも多くの人々が立ち上がってくれた。その事実に、胸がいっぱいになった。


しかし、安堵と同時に、バルドスの残した言葉が重く心にのしかかる。問題が完全に解決したわけではない。彼らは必ずまた来るだろう。そして、その時、私は、そしてこのハルモニアの町は、どうなってしまうのだろうか。


騒ぎが一段落し、町の人々もそれぞれの家路についた後、私はギデオンさん、エルマさん、トマさん、リナちゃん、そして駆けつけてくれた町長と共に、「リリアズ・ハーブ」の店内で改めて顔を突き合わせていた。


「リリアーナ、まずはよくやった。そして、ハルモニアの皆もな」ギデオンさんが、私の肩を力強く叩いた。「だが、これで終わりじゃねえ。奴らは必ずまた来る。今度こそ、本気でな」 


私は、皆の顔を見渡し、そして、しっかりと頷いた。 


「はい。私は、もう逃げません。私の大切なこの場所と、ここにいる全ての人々を、私の持てる全ての力で守り抜きます。それが、ハルモニアの薬草師、リリアーナとしての私の戦いです」


春の夕暮れの光が、窓から静かに差し込み、私たちの決意を優しく照らし出していた。嵐はまだ去ってはいない。けれど、私たちは、決して一人ではないのだ。

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