第31話 春雷の予兆、忍び寄る過去の影
ハルモニアの町に本格的な春が訪れ、私たちの「リリアズ・ハーブ」の裏手にある薬草畑は、生命力に満ち溢れた緑で輝いていた。カモミールやミントが柔らかな葉を広げ、ラベンダーの若い茎が風にそよぐ。店内では、エルマさん、トマさん、リナちゃん、そして私が、それぞれの持ち場で生き生きと働き、お店は連日、薬草の優しい香りとお客様の笑顔で満たされていた。定期的に開催している薬草教室も好評で、私はこのハルモニアの地で、確かに自分の居場所を見つけたと感じていた。
しかし、そんな穏やかな日常の中に、ほんの些細な、けれど見過ごすことのできない異変が、静かに忍び寄り始めていた。先日の老婦人の言葉――宮廷の薬湯の香りに似ている、というあの言葉が、私の心の隅に小さな棘のように引っかかっていたのだ。
そして数日前から、ギデオンさんや市場の商人たちの間で、奇妙な噂が囁かれるようになった。見慣れない、身なりの良い数人の男たちが、ハルモニアの町をうろつき、何かを探るような素振りを見せているというのだ。彼らは多くを語らず、ただ鋭い目で町の人々を観察しているらしい。
「リリアーナ、お前さんも少し気をつけた方がいいかもしれん。何だか、きな臭い連中だ」
ギデオンさんは、いつになく真剣な表情で私に忠告してくれた。
その不安が現実のものとなったのは、春の柔らかな日差しが心地よい、ある日の午後だった。
「リリアズ・ハーブ」の扉が開き、一人の男が入ってきた。歳は三十代半ばだろうか。仕立ての良い旅装束に身を包み、腰には立派な剣を帯びている。その佇まいは、ハルモニアの素朴な町には明らかに不釣り合いだった。そして何よりも、その男の鋭く冷たい瞳が、私の全身を射抜くように見つめていた。
「……いらっしゃいませ」
私は平静を装い、いつものようにお客様を迎える言葉を口にしたが、声が微かに震えているのが自分でも分かった。男は店内に並べられた薬草菓子やハーブティーには目もくれず、まっすぐにカウンターの前に立つと、私を値踏みするようにじろりと見つめた。
「あなたが、この店の主のリリアーナ殿ですかな?」
その声は低く、どこか威圧的だった。
「はい、さようでございます。何かお求めのものでも?」
「いや……少し、珍しいハーブを探しているのだがね。例えば、アルメリア王国の宮廷薬草園でしか栽培されていないと聞く、『
月光花――その名を聞いた瞬間、私の心臓は氷水に浸されたように冷たくなった。それは、アルメリア王国の秘薬の原料ともなる、門外不出の薬草。私が王宮にいた頃、特別に世話を許されていた花だ。この男は、明らかに何かを知っている。
「申し訳ございません。そのような貴重なハーブは、当店では扱っておりませんで……」
私が何とか言葉を絞り出すと、男はフッと鼻で笑い、懐から小さな革袋を取り出した。そして、その中から一枚の金貨を取り出し、カウンターの上に置いた。その金貨には、アルメリア王国の王家の紋章――三つの星と月桂樹の意匠――がくっきりと刻まれている。
「ほう、それは残念だ。では、この金貨に見合うような、何か特別な『癒やし』を期待できるものでもあるかな?例えば……心を落ち着かせ、遠い故郷を忘れさせてくれるような、ね」
男の言葉は、じわりじわりと私を追い詰めてくるようだった。私は、彼の視線から逃れるように俯いた。王宮での息詰まるような日々、監視の目、そして政略結婚という逃れられない運命……それらが、悪夢のように蘇ってくる。
その時だった。
「お客様、何かお困りでしょうか?もしよろしければ、私がお話を伺いますが」
いつの間にか私の隣に立っていたエルマさんが、穏やかな、しかし毅然とした態度で男に声をかけた。彼女の背後には、心配そうな顔つきのトマさんとリナちゃんも控えている。
男は一瞬、エルマさんに鋭い視線を向けたが、やがてつまらなそうに肩をすくめると、「いや、結構。今日は見るだけにしておこう」と言い残し、金貨を再び懐にしまい、店を出ていった。
男が去った後も、店の空気は重く張り詰めたままだった。
「リリアーナさん……大丈夫ですか?あの男、なんだか……」
エルマさんが、私の顔を覗き込むようにして尋ねた。トマさんもリナちゃんも、不安げな表情で私を見つめている。
「ええ、大丈夫よ、エルマさん。ありがとう。少し、変わったお客様だっただけだから……」
私は無理に笑顔を作ってみせたが、手は微かに震えていた。
その夜、私はギデオンさんに、昼間の出来事を正直に話した。ギデオンさんは黙って私の話を聞き終えると、深い溜息をついた。
「……リリアーナ、お前さん、やっぱり何か大きな秘密を抱えてるんだな。俺は、お前さんがこの町に来た時から、ただの町娘じゃねえってことは薄々感づいちゃいたが、深くは聞かねえようにしてきた。だが……」
ギデオンさんの言葉は、そこで途切れた。彼の表情には、これまでにないほどの厳しい光が宿っている。
その日から数日間、あの男、そして彼と同じような身なりの男たちが、ハルモニアの町を徘徊し、私の身辺を嗅ぎ回っているのが分かった。彼らは直接私に接触してくることはなかったが、その存在は、私にとって絶え間ないプレッシャーとなった。市場へ行っても、薬草畑へ行っても、どこかで見られているような気がして、心が休まる時がなかった。
このままでは、ギデオンさんやエルマさん、そして「リリアズ・ハーブ」にも迷惑がかかってしまうかもしれない。私の過去が、このハルモニアでの大切な日々を、そして愛する仲間たちを危険に晒すことになるかもしれないのだ。
(私は……どうすればいいの……?)
自分の部屋で一人、私は暗い窓の外を見つめながら、答えの出ない問いを繰り返していた。この町を去るべきなのか。それとも、信頼する仲間たちに全てを打ち明け、助けを求めるべきなのか。
春の嵐が近づいているかのような、不穏な空気が、私の心を重く包み込んでいた。
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