第30話 春萌ゆ、知識の泉と微かな影

ハルモニアを覆っていた厳しい冬の白銀もようやく融け、大地には柔らかな陽光が降り注ぎ始めた。私たちの「リリアズ・ハーブ」の裏手にある薬草畑にも、待ちわびた春の息吹が訪れ、土を持ち上げて顔を出す小さな緑の芽があちこちに見られるようになった。カモミール、ミント、レモンバーム……冬の間、根に力を蓄えていたハーブたちが、再びその生命力を輝かせようとしている。


「薬草菓子工房リリアーナ」改め、「リリアズ・ハーブ」は、トマさんとリナちゃんという心強い仲間が加わったことで、以前にも増して安定した運営ができるようになっていた。私が新しい薬膳菓子の開発や、より専門的な薬草の研究に没頭できる時間が増えたのも、エルマさんを中心に三人が日常業務をしっかりと支えてくれているおかげだ。お店のカフェスペースは、春の陽気に誘われた町の人々の憩いの場となり、いつもハーブの優しい香りと和やかな笑い声で満たされていた。



そんなある日、私は以前から温めていたアイデアを実行に移すことにした。それは、町の人々を対象にした、より本格的な「薬草教室」を定期的に開催することだった。これまでのハーブ石鹸作りやポプリ作りのワークショップも好評だったけれど、もっと深く薬草の知識を共有し、皆が自分自身や家族の健康のために、安全にハーブを活用できるようになるお手伝いがしたいと思ったのだ。


「リリアーナ様、薬草教室、とっても素敵な考えですわ!私もアシスタントとして、ぜひお手伝いさせてください!」


リナちゃんは、目をキラキラさせながら私の提案に賛同してくれた。トマさんも、最初は少し戸惑っていたけれど、「……僕で力になれることがあるなら」と、教材として使うハーブの標本作りや、それぞれの薬草の詳しい効能をまとめた資料作成を黙々と手伝ってくれるようになった。彼の知識の深さと正確さには、私もエルマさんも改めて舌を巻いた。


最初の薬草教室のテーマは、「春の訪れとデトックスハーブ」。タンポポやネトル、クレソンといった、春先に採れるデトックス効果の高い野草の見分け方や、それらを使った簡単な料理、そしてハーブティーの淹れ方などを実習形式で教えた。集まってくれたのは、町の主婦の方々や、健康に関心の高い年配の方々が中心だったが、皆とても熱心で、質問もたくさん飛び交った。


「リリアーナさん、このタンポポの根っこは、本当に食べられるのかい?」


「はい、よく洗って乾燥させ、焙煎すると、ノンカフェインのヘルシーなタンポポコーヒーとして楽しめますのよ。肝臓の働きを助ける効果も期待できます」


トマさんが用意してくれた丁寧な解説カードも大好評で、彼は少し照れくさそうにしながらも、参加者からの質問に的確に答えていた。リナちゃんは、持ち前の明るさと細やかな気配りで、参加者一人ひとりに声をかけ、実習の手助けをする。その姿は、すっかり頼もしいアシスタントだった。



薬草教室の評判はすぐに町中に広まり、次回の予約もすぐに埋まってしまうほどだった。そんなある日、教室の終わりに、意外な人物が「リリアズ・ハーブ」を訪れた。「アルカヌム薬草店」の若い店主、アレクシスと名乗る男性だった。彼は、これまでの洗練された都会的な装いとは少し違い、ラフな格好で、どこか探るような、それでいて少し興味深そうな目で私を見ていた。


「リリアーナ殿、あなたの薬草教室の噂はかねがね。なかなか盛況のようですね」


その言葉には、ほんの少しだけ棘があるようにも感じられたが、私は穏やかに微笑んで応じた。


「アレクシス様こそ、ご来店いただき光栄ですわ。何かお探しのハーブでもございましたか?」


「いや……少し、あなたのやり方に興味を持っただけだ。我々の店とは、全く異なるアプローチのようだからな」


彼はそう言うと、店内に並べられた手作りの薬膳菓子や、素朴なハーブティーのパッケージを一つ一つ吟味するように眺め、やがて「失礼した」と一言だけ残して去っていった。彼が何を考えているのかは分からなかったけれど、少なくとも、私たちの存在を無視できないものとして認識していることは伝わってきた。


「リリアズ・ハーブ」の評判は、ハルモニアの町を越えて、少しずつ遠方にも届き始めていた。隣町や、さらに遠くの都市から、私の作る薬膳菓子やハーブティーを求めてやってくるお客様も増えてきた。そんな旅人たちとの会話は、私に外の世界の情報を運んできてくれる貴重な機会でもあった。


ある時、王都の方から来たという上品な身なりの老婦人が、私のブレンドしたハーブティーを味わいながら、ぽつりと言った。


「このハーブの組み合わせ……どこか懐かしい香りがいたしますわ。昔、宮仕えをしていた頃、病弱だった姫様のために、宮廷の薬師が特別に調合していた薬湯の香りに、どことなく似ているような……」


その言葉に、私の心臓がどきりと跳ねた。まさか……。私は平静を装いながらも、老婦人の顔をまともに見ることができなかった。


「それは……光栄でございます。きっと、使っているハーブの種類が偶然似ていたのかもしれませんわね」


その出来事以来、私は時折、遠い故郷のことや、自分の過去を思い出しては、胸の奥に小さな不安の影がよぎるのを感じるようになった。アルメリア王国は今、どうなっているのだろうか。父上や母上は……そして、マリーは。政略結婚から逃げ出した私を、王国はまだ追っているのだろうか。


ハルモニアの穏やかな春の日差しの中で、私の心には、微かな嵐の予感が芽生え始めていた。薬草畑のハーブたちは、今年も力強く芽吹き、美しい花を咲かせようとしている。私もまた、この地でしっかりと根を張り、自分の力で未来を切り開いていかなければならない。けれど、その未来が、いつまでもこの平穏な日々と同じように続くとは限らないのかもしれない。


そんな思いを胸に秘めながらも、私は今日も「リリアズ・ハーブ」のカウンターに立ち、お客様を笑顔で迎える。この温かい場所と、大切な仲間たち、そして私を信じてくれる町の人々がいる限り、どんな困難も乗り越えていけるはずだと信じて。

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