第9話 厨房は実験室、香るは夢の試作品

「樫の木亭」の厨房の一角は、すっかり私の聖域、いや、むしろ賑やかな実験室と化していた。ギデオンさんの好意で、以前よりも少し広い作業台と、いくつかの棚を使わせてもらえることになり、そこには私が市場で買い集めた様々なハーブやスパイス、木の実、ドライフルーツ、そして小麦粉や蜂蜜の瓶が所狭しと並んでいる。私のエプロンは常に小麦粉と何かしらのハーブの粉で白っぽくなっていて、髪をまとめた頭巾からも、ふとした瞬間に甘いやら爽やかやら、不思議な香りが漂うようになった。


まずは、ギデオンさんとエルマさんからアドバイスをもらったビスケットの改良に取り組んだ。歯応えを出すために、少しだけ粗挽きのライ麦粉を混ぜてみたり、卵の量を調整したり。甘みについては、蜂蜜の種類を変えたり、乾燥させたリンゴのチップを細かく刻んで加えたりもした。カモミールとレモンバームの黄金比率を求めて、何度も配合を変えて焼き、そのたびに自分で味見をし、首を捻る。まるで、王宮で父のための薬湯の配合を微調整していた時のように、私は完全にその作業に没頭していた。


「リリアーナさん、また新しいビスケットですか?今度のは、なんだか色が濃いですね」


エルマさんが、興味深そうに私の手元を覗き込む。


「ええ、少しだけ炒った大麦の粉を入れてみたんです。香ばしさが出るかと思って。でも、ちょっと苦味が強すぎたみたい……」


私は焼きあがったばかりのビスケットを齧り、渋い顔をした。エルマさんは「あらあら」と微笑みながらも、「でも、その探究心、素敵ですわ」と励ましてくれる。


ビスケットの改良と並行して、私は新しいお菓子にも挑戦し始めていた。市場で見かける季節の果物や、ギデオンさんが「珍しいものが手に入ったぞ」と時折持ってきてくれる木の実などが、私の創作意欲を刺激するのだ。


ある時は、ローズマリーの葉を細かく刻んで生地に混ぜ込み、レモンの皮のすりおろしで香りをつけたマフィンを焼いてみた。ローズマリーの爽やかな香りが、甘い生地と意外なほど良く合い、これはなかなかの自信作になった。ただ、最初のうちは生地がうまく膨らまず、まるで石のように硬いマフィンを焼き上げてしまい、ギデオンさんに「こいつは武器にでもするのか?」と大笑いされたりもした。オーブンの火加減や、材料を混ぜる順番が、お菓子作りではこんなにも大切だなんて、薬草の調合とは全く違う世界の法則に、私は毎日新しい発見をしていた。


またある時は、エルダーフラワーやミント、ローズヒップなどを使って、ハーブコーディアルの試作にも取り組んだ。これは、ハーブを砂糖と一緒に煮詰めて作るシロップで、水やお湯、炭酸水などで割って飲むものだ。薬効も期待できるし、日持ちもする。


「これはいいな。旅の途中で飲むのにもってこいだ。特にエルダーフラワーのやつは、風邪の予防にもなりそうだ」


ギデオンさんは、試作品のコーディアルを水で割り、ごくりと飲み干すと、満足そうに頷いた。ただ、これも最初はハーブの煮出し時間や砂糖の量を間違えて、薬臭くて飲めたものではなかったり、逆に甘すぎてハーブの風味が飛んでしまったりと、何度も失敗を繰り返した。


私の作るお菓子は、どれもこれも、どこか風変わりだった。甘いお菓子の中に、ぴりっとした刺激のあるハーブが入っていたり、薬草特有の苦味や香りがほんのりと感じられたりする。最初は「なんだこりゃ?」と眉をひそめていたギデオンさんも、私がそれぞれのハーブの効能や、なぜその組み合わせにしたのかを熱心に説明すると、「なるほどな。お前さんの菓子は、ただ美味いだけじゃねえんだな」と、次第に面白がってくれるようになった。


エルマさんは、私の作るお菓子をいつも「あら、可愛らしい!」「良い香りですわね!」と褒めてくれ、時には「このハーブは、見た目も綺麗だから、焼き菓子の上に飾ってみたらどうかしら?」などと、女性ならではの素敵なアイデアをくれることもあった。


厨房で私が何やら新しいものを作っていると、その香りに誘われて、宿屋の常連客が顔を出すこともあった。


「お嬢ちゃん、また何か美味そうなもん作ってるのかい?おこぼれに預かれると嬉しいんだが」

そんなふうに声をかけられると、私は少し照れながらも、試作品を差し出す。


「これは……なんだ、甘いのにスースーするな!でも、悪くねえ!」


「このクッキー、なんだか体がポカポカする気がするぜ」


様々な感想が飛び交い、それがまた次の改良へのヒントになる。いつしか、「樫の木亭のリリアーナさんが作る不思議な薬草菓子」は、宿屋の従業員や一部の常連客の間で、ささやかな楽しみの一つとして認知され始めていた。ギデオンさんも、私の熱意と努力を認めてくれ、材料費の心配はするなと言ってくれるばかりか、私の作業スペースの隣に、小さな戸棚まで取り付けてくれた。


お菓子作りを通して、私は改めて「薬としての効能」と「お菓子としての美味しさ」をどう両立させるかというテーマに、深く向き合うことになった。王宮では、薬はあくまで薬であり、良薬口に苦しでも仕方がないとされていた。けれど、お菓子は違う。美味しくなければ、誰も喜んで口にはしてくれない。それぞれの薬草が持つ力を損なうことなく、他の食材と調和させ、誰もが「美味しい」と感じる形に昇華させる。それは、途方もなく難しく、しかしこの上なく魅力的な挑戦だった。


そんな試行錯誤の日々がしばらく続いたある日、私はついに、自分でも納得のいくお菓子をいくつか完成させることができた。改良を重ねた「カモミールとリンゴのハニービスケット」は、サクサクとした歯触りと優しい甘み、そしてほのかなカモミールの香りが絶妙なバランスに仕上がった。ローズマリーとレモンのマフィンは、生地にヨーグルトを加えることで、しっとりとした食感と爽やかな風味が増した。そして、エルダーフラワーとレモンのコーディアルは、甘酸っぱく、花の香りがふわりと広がる、自信作となった。


これらの完成品を、いつものようにギデオンさんに試食してもらう。彼はそれぞれの菓子をじっくりと味わい、そして、私の顔を見て、満足そうに大きく頷いた。


「リリアーナ。こいつは……本物だ。特にこのビスケットとマフィンは、うちのハーブティーと一緒に客に出したら、きっと喜ばれるぞ」


その言葉は、私にとって何よりの褒め言葉だった。自分の作ったお菓子が、ついに商品として認められるかもしれない。その可能性に、私の心は新たな喜びと期待で満たされた。


「本当ですか、ギデオンさん!」


「ああ。明日から、お試しで出してみるか。お前さんの名前でな」


ギデオンさんの言葉に、私は力強く頷いた。

リリアーナの薬草菓子が、ハルモニアの町の人々を笑顔にする日が、もうすぐそこまで来ているのかもしれない。私の胸は、甘く香ばしい夢の香りでいっぱいだった。

(第9話 了 文字数:約2490文字)

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