第5話 辺境の町「ハルモニア」と出会いの萌芽
期待と不安を胸に丘を下り、私はついにハルモニアの町の門をくぐった。王都とは比べ物にならないほど質素だが、それでもこれまでに立ち寄ったどの村よりも大きく、活気に満ち溢れている。石畳の道を行き交う人々の服装は様々で、屈強な冒険者風の男たちや、異国の装束をまとった商人、荷馬車を引く農夫など、実に多様な顔ぶれだった。建物の多くは木造で、ところどころに石造りの頑丈そうな建物が混じっている。空気は少し埃っぽく、家畜の匂いや、どこかの酒場から漏れ聞こえてくる陽気な音楽、そして様々な香辛料の入り混じった、何とも言えない独特の匂いがした。これが、辺境の町ハルモニア。私の新しい人生の舞台となる場所だ。
まずは、アランが手紙に記していた彼の友人、「ギデオン」という人物を探さなければならない。手紙には「町の西側にある『樫の木亭』という宿屋の主人で、大きな熊のような男だが、根は優しい」と書かれていた。
町の西側を目指して歩き始めたものの、ハルモニアの道は入り組んでいて、すぐに方向感覚を失ってしまった。道行く人に「樫の木亭はどちらでしょうか?」と尋ねてみるが、皆忙しそうに通り過ぎてしまったり、訝しげな顔で私を見たりするばかり。中には親切に教えてくれる人もいたが、その説明がまた分かりにくく、私は同じような場所をぐるぐると彷徨う羽目になった。
(王宮の中なら、目を瞑っていても歩けたのに……)
自分の世間知らずさと方向音痴っぷりに、思わずため息が漏れる。太陽が真上近くまで昇り、額には汗が滲んでいた。お腹も空いてきた。心細さが増してきたその時、ふと、美味しそうな焼き菓子の匂いが鼻をかすめた。匂いのする方へふらふらと引き寄せられると、そこには小さな露店があり、蜂蜜をたっぷり塗った焼き菓子が並べられていた。
「あ、あの……これを一つ、いただけますか?」
おそるおそる声をかけると、人の良さそうなおばあさんがにっこりと微笑んで、焼き菓子を一つ、油紙に包んでくれた。銅貨二枚。少しずつ、お金の使い方も覚えてきている。温かい焼き菓子を一口齧ると、優しい甘さが口の中に広がり、疲れた体に染み渡るようだった。
「美味しい……!」
思わず声に出すと、おばあさんは嬉しそうに目を細めた。「ありがとうね、嬢ちゃん。旅の人かい?この町は初めてかい?」
「はい。樫の木亭という宿屋を探しているのですが、ご存じありませんか?」
「ああ、ギデオンさんのところだね!それなら、この道をまっすぐ行って、三つ目の角を左に曲がったところさ。大きな樫の木の看板が出てるから、すぐ分かるよ」
親切な情報に、私は心から感謝した。お礼を言って再び歩き出すと、今度は迷うことなく目的の場所にたどり着くことができた。大きな通りに面した二階建ての宿屋で、その名の通り、使い込まれた樫の木の立派な看板が掲げられている。ここが「樫の木亭」か。
深呼吸をして、宿屋の扉を押す。中は薄暗く、木のテーブルと椅子がいくつも並べられ、カウンターの奥では、まさにアランが描写した通りの「大きな熊のような男」が、腕組みをしながら帳簿らしきものに目を落としていた。年の頃は四十代半ばだろうか。厳つい顔立ちに、太い眉、そして無精髭。その威圧感に、私は思わず後ずさりしそうになった。
「あ、あの……ご主人様でいらっしゃいますか?」
私の声に、男――ギデオンはゆっくりと顔を上げた。鋭い眼光が私を射抜き、思わず息を呑む。
「……なんだ、嬢ちゃん。宿か?飯か?」
その声は低く、少し嗄れていた。
「いえ、あの……アラン・グレイフィールドという者の紹介で参りました。こちらに、手紙を……」
私は緊張しながら、アランから預かった手紙を差し出した。ギデオンは訝しげな表情でそれを受け取ると、封を切り、無言で読み始めた。彼の大きな手が、小さな手紙をさらに小さく見せる。
手紙に目を通すうちに、ギデオンの険しい表情が徐々に和らいでいくのが分かった。そして、全てを読み終えると、彼はふう、と大きなため息をつき、私に向かって初めて穏やかな目を向けた。
「……なるほどな。アランの奴、とんでもねえ置き土産をしやがったもんだ」
彼はそう言って、くつくつと喉の奥で笑った。その笑顔は、彼の厳つい外見とは裏腹に、どこか子供っぽく、親しみやすいものだった。
「リリアーナ、だったか。よく来たな、こんな辺境の町まで。長旅で疲れただろう。まずは部屋へ案内する。話はそれからだ」
ギデオンに案内されたのは、宿屋の二階にある、こぢんまりとした清潔な部屋だった。窓からは町の喧騒が遠くに聞こえ、簡素ながらも手入れの行き届いたベッドと小さな机が置かれている。王宮の自室とは比べようもないけれど、今の私にとっては充分すぎるほど立派な場所だ。
荷物を置き、顔を洗って少し落ち着くと、ギデオンがハーブティーとパンを持ってきてくれた。
「アランの手紙には、お前さんが薬草に詳しいと書いてあった。この町でも、その知識が役に立つかもしれねえ。だが、まあ、急ぐことはねえさ。しばらくここに滞在して、町の様子でも見てみるといい」
「はい……ありがとうございます、ギデオン様」
「様なんてよせやい。ギデオンでいい。アランの頼みだ、困ったことがあったら何でも言え。……それにしても、あいつが王女様を逃がす手助けをするとはな。見かけによらず、やるじゃねえか」
ギデオンは意味ありげにニヤリと笑った。アランの手紙には、私の身分については触れられていなかったはずだが、この男は何かを察しているのかもしれない。けれど、それを追及するような野暮な真似はしなかった。
ギデオンは、ハルモニアの町について色々と教えてくれた。この町は、王国の東の国境に位置し、様々な物資が集まる交易の中継地点であること。そのため、商人や旅人、冒険者など、多くの人々が行き交い、活気がある一方で、少しばかり治安の悪い区域もあること。そして、町の周囲には豊かな森や山が広がり、薬草の宝庫でもあること。
「薬草市場か……」
ギデオンの話を聞きながら、私の胸は高鳴っていた。自分の知識を活かせる場所が、ここにはあるかもしれない。
「まずは、この町に慣れることだな。それから、お前さんが何をしたいのか、ゆっくり考えるといい」
ギデオンの言葉は温かく、私の不安を少しずつ溶かしてくれた。
その夜、私は久しぶりに柔らかいベッドで眠りについた。窓から差し込む月明かりが、部屋を優しく照らしている。
(ここからだわ。ここから、私の新しい人生が始まるのね)
アランへの感謝と、ギデオンとの出会い。そして、ハルモニアという町への期待。
様々な思いが胸に去来する中、私はいつの間にか深い眠りに落ちていた。
翌朝、私はいつもより少し早く目を覚ました。窓を開けると、ハルモニアの町の朝の空気が流れ込んでくる。鳥のさえずり、パン屋から漂ってくる香ばしい匂い、そして遠くで聞こえる人々のざわめき。
全てが、私にとって新しい世界の音と匂いだ。
「よし、まずは町の薬草市場を覗いてみようかしら」
新しい一日の始まりと共に、私の心には確かな目標が芽生えていた。
リリアーナの、ハルモニアでの第一歩が、今、静かに踏み出されようとしていた。
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