第4話 初めての自由と戸惑いの道

王宮を飛び出して、早くも三日が過ぎた。アランに見送られたあの夜明けの感動は、今も鮮明に胸に残っている。けれど、一人きりの旅路は、想像していたよりもずっと心細く、そして何よりも学ぶことの連続だった。


馬の扱いは心得ていたけれど、それはあくまでも王宮の訓練場での話。石ころだらけの街道や、ぬかるんだ森の道を進むのは勝手が違い、初日は何度も落馬しそうになった。夜は、人目を避けて森の中で野宿することもあった。硬い地面と冷たい夜風に身を縮め、遠くで響く獣の鳴き声に怯えながら夜を明かすのは、生まれて初めての経験だった。王宮の天蓋付きのベッドがいかに贅沢なものだったか、今更ながらに痛感する。


それでも、目にするもの全てが新鮮で、私の心を躍らせた。朝露に濡れてきらめく名も知らぬ野花、どこまでも広がる青々とした草原、夕日に赤く染まる山々の稜線。本でしか見たことのなかった広大な世界が、目の前に広がっている。その美しさに、思わず息を呑むことも一度や二度ではなかった。


初めて自分の意思で立ち寄ったのは、街道沿いの小さな村だった。お腹が空いて、何か食べ物を手に入れようと思ったのだ。村の入り口にあった小さなパン屋の看板を見つけ、おずおずと店に入る。香ばしいパンの匂いが鼻をくすぐり、思わずお腹がぐうと鳴った。


「あの、このパンを一つ、くださいな」

私が指さしたのは、丸くて大きな、少し黒っぽいパンだった。店番をしていた恰幅の良いおかみさんは、私の顔をじろりと見ると、ぶっきらぼうに言った。


「あいよ。銅貨三枚だ」


「ど、銅貨……三枚?」


私はアランからもらった革袋をごそごそと探った。中には銀貨と金貨が数枚。銅貨なんてものは、見たこともない。王宮では、お金の心配などしたことがなかったのだ。自分の世間知らずっぷりに、顔が赤くなるのを感じた。


「も、申し訳ありません。銀貨しかないのですが……」


そう言って一番小さな銀貨を差し出すと、おかみさんは眉をひそめた。


「お釣りなんかないよ!あんた、どこぞの貴族のお嬢様かい?そんな大きな金で、こんな小さな村のパン屋に来るんじゃないよ」


ぴしゃりと言われ、私はしょんぼりと肩を落とした。結局、その日はパンを買うことができず、持参していた干し肉を齧って空腹を凌いだ。お金の価値も、使い方さえも知らないなんて。自由とは、こういう現実と向き合うことでもあるのだと、身をもって学んだ。



その夜は、街道沿いにあった小さな宿屋に泊まることにした。アランからもらったお金を少しでも節約したかったけれど、さすがに連日の野宿で体力が限界だったのだ。宿の主人は人の良さそうなおじいさんで、私の差し出した銀貨を見て驚いていたけれど、ちゃんとお釣りとして数枚の銅貨を返してくれた。


通された部屋は、板張りの床に藁を敷いただけの簡素なもので、窓も小さく薄暗かった。それでも、屋根があって風雨をしのげるだけで、私にとっては天国のように感じられた。夕食に出されたのは、硬いパンと野菜の煮込み、そして薄いエール。王宮の豪華な食事とは比べ物にもならないけれど、温かい食事ができることの有り難みが身に染みた。


食事中、ふと足元に目をやると、擦り傷ができているのに気がついた。昨日、森の中で木の枝に引っ掛けたものだろう。大したことはないけれど、少しジンジンと痛む。


(そうだわ、薬草)


私は荷物の中から、自分で調合したキンセンカの軟膏を取り出した。これは軽い傷や肌荒れによく効く、私の自信作の一つだ。そっと傷口に塗ると、スーッとした清涼感と共に痛みが和らいでいく。


「ふふ、やっぱり私の薬草は頼りになるわ」


小さな成功体験が、私の心を少しだけ軽くしてくれた。



翌朝、宿を出る時、宿の主人が心配そうに声をかけてきた。


「嬢ちゃん、一人旅かい?この先は少し物騒な噂もあるから、気をつけるんだよ。特に、ハルモニアの町へ行くなら、山賊が出るって話だからね」


「山賊……」


思わぬ言葉に、私の背筋が冷たくなる。アランはそんなこと、一言も言っていなかった。彼のことだから、私を心配させまいと黙っていたのかもしれない。


(でも、行くしかないわ。ハルモニアには、アランの友人がいるのだから)


不安を振り払うように、私は再び馬上の人となった。道中、主人の言葉が頭から離れず、周囲への警戒を怠らなかった。幸い、山賊らしき影に出くわすことはなかったけれど、私の心は常に緊張していた。



そんな旅の途中、小さな出来事があった。街道脇の木陰で休んでいると、一人の老婆が重そうな荷物を背負って通りかかった。老婆はひどく咳き込んでいて、顔色も悪い。見かねた私が声をかけると、老婆は「風邪をこじらせてしまってのう。薬を買う金もないし、この先の町までまだ遠いんじゃ」と弱々しく言った。


私はとっさに、自分の荷物から乾燥させたエルダーフラワーとペパーミントを取り出し、携帯用のティーセットでお湯を沸かしてハーブティーを淹れた。


「おばあさん、これをどうぞ。少しは楽になるかもしれませんわ」


エルダーフラワーは発汗を促し、ペパーミントは喉をすっきりさせる効果がある。王宮では、風邪のひきはじめによく飲んでいたものだ。


老婆は最初、訝しげな顔をしていたが、ハーブティーの優しい香りに誘われたのか、おずおずとカップを受け取り、一口飲んだ。すると、老婆の顔がぱっと明るくなった。


「おお……これは、体が温まる。それに、喉がスーッとするようだ。嬢ちゃん、あんたは薬師さんかい?」


「いえ、ただ薬草に詳しいだけですの」


老婆は何度も私に礼を言い、少し元気を取り戻した様子で去っていった。その姿を見送りながら、私の胸には温かいものが込み上げてくるのを感じた。自分の知識が、ほんの少しでも誰かの役に立った。それが、たまらなく嬉しかったのだ。


(ハルモニアに行ったら、もっとたくさんの人を助けられるかもしれない)


そんな希望を胸に抱きながら、私は旅を続けた。王宮を出てから、七日目の午後。長く続いた森の道が終わり、視界がぱっと開けた。丘の上から見下ろすと、眼下に大きな町が広がっているのが見えた。石造りの家々が立ち並び、町の中心には大きな広場のようなものも見える。活気のある人々の声が、風に乗ってここまで届いてくるようだ。


「あれが……ハルモニア……!」


ついにたどり着いた。私の新しい人生が始まる町。期待と、ほんの少しの不安が入り混じった複雑な気持ちで、私はその光景をじっと見つめていた。アランが託してくれた手紙を、ぎゅっと握りしめる。


深呼吸を一つ。私は馬の腹を軽く蹴り、丘を下り始めた。


ハルモニアの町が、私を待っている。

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