第3話 新月の夜と自由への序章

約束の三日後の夜。窓の外は、アランの言葉通り、手を伸ばしても自分の指先すら見えないほどの深い闇に包まれていた。新月が夜空を支配し、星々の微かな光だけが、これから始まる私の大冒険をそっと照らしているようだった。


自室のベッドには、私が眠っているように見せかけるための偽装を施した。侍女のマリーが朝、これを発見した時の顔を思うと少し胸が痛むけれど、感傷に浸っている暇はない。私はアランに指示された通り、動きやすいように仕立て直した地味な茶色の旅装束に身を包み、髪は頭巾でしっかりと隠した。腰には、アランが用意してくれた最低限の旅の資金と、薬草を入れた小さな革袋、そして護身用の短剣を差している。鏡に映る自分は、もはや王女リリアーナの面影はなく、どこにでもいる町娘のようだ。それが少し可笑しくもあり、心強いような気もした。


(大丈夫、私ならできる)


最後の深呼吸を一つ。アランと打ち合わせた合図は、私の部屋の窓辺に置いた特定のハーブ――夜になると強い香りを放つ月見草――が萎れないように水をやること。それは彼にとって「準備完了、今夜決行」のサインだった。


時間になり、私は音を立てないよう慎重に部屋の扉を開け、闇に溶け込むように廊下へと滑り出した。心臓の音が、やけに大きく聞こえる。アランは、王宮の古い地図を元に見つけ出した、今はほとんど使われていない古い地下通路で待っているはずだ。そこへたどり着くまでが最初の関門だった。


王宮の廊下は、夜間も数カ所に哨兵が立っている。彼らの巡回のパターンはアランから教えられていたが、それでも緊張で手汗が滲んだ。柱の影から影へと身を潜め、息を殺して進む。一度、角を曲がった先で巡回中の兵士の足音が聞こえ、慌てて近くのタペストリーの裏に隠れた。兵士が通り過ぎるまでの数分間が、永遠のように長く感じられた。


ようやくたどり着いた地下通路への入り口は、大きな食料貯蔵庫の奥、分厚い石壁の一部が巧妙に隠し扉になっていた。アランが言っていた通り、特定の石を押すと、重々しい音を立てて扉がわずかに開く。その隙間から、待ち構えていたアランが静かに手招きをしていた。


「遅かったな。何かあったのか?」


彼の声はいつもより低く、緊張を隠せないでいるのが伝わってくる。


「ううん、大丈夫。少し手間取っただけ」


私たちは言葉少なに行動を開始した。地下通路は埃っぽく、カビ臭い空気が漂っていた。アランが掲げる小さな灯油ランプの光だけを頼りに、私たちは迷路のような通路を進んでいく。時折、どこからか水の滴る音や、ネズミの走り回るような小さな物音が聞こえ、そのたびに私の肩が跳ねた。


「もう少しだ。この先を抜ければ、王宮の敷地の外れ、古い狩猟小屋の近くに出る」


アランの言葉に励まされながら、私は必死に彼の後を追った。彼の背中は広く、頼もしい。この人がいなければ、私の無謀な計画は、夢物語のまま終わっていただろう。


どれくらい歩いただろうか。不意に、アランが立ち止まり、前方を指さした。


「あれだ」


ランプの光が、苔むした木製の扉を照らし出している。アランが慎重に閂を外し、扉を押し開けると、ひやりとした夜気が私たちの顔を撫でた。そして――目の前に、本物の、何も遮るもののない夜空が広がっていた。


「……出られた」


思わず漏れた私の声は、喜びと安堵で震えていた。宮殿の重苦しい空気とは違う、土と草の匂いが混じった夜風が、頬を優しく撫でる。これが、自由の空気。


アランは素早く周囲を警戒し、安全を確認すると、私に手招きした。狩猟小屋の陰には、鞍をつけた馬が一頭、静かに佇んでいた。そして、その傍らには小さな荷物も用意されている。


「この馬を使え。お前が一人で扱えるように、大人しい性質のやつを選んでおいた。荷物の中には、数日分の食料と水、地図、それから変装用の服がもう一揃い入っている。あまり目立つなよ」


「アラン……ありがとう。本当に、何から何まで」

言葉に詰まる私に、アランは困ったように頭を掻いた。


「いいか、リリアーナ。ここからは本当にお前一人の戦いだ。俺は国境近くの町までは一緒に行けない。だが、これだけは覚えておけ。どんな時も、自分の直感を信じろ。そして、困った時は無理をせず、信頼できると思った人間にだけ助けを求めろ。それから……」


アランは懐から小さな革袋を取り出し、私の手に握らせた。中には、数枚の銀貨と、一枚の金貨が入っていた。


「これは、俺からの餞別だ。大した額ではないが、いざという時に役立つだろう」


「こんなものまで……」


「いいから、持っていけ。それと、この手紙を。国境を越えた先にある『ハルモニア』という町に着いたら、そこにいる俺の古い友人を訪ねろ。薬草に詳しいお前なら、きっと力になれるはずだ。その友人は、お前のことを詮索したりはしない。ただ、『アランに紹介された』とだけ言えばいい」


手渡された手紙はずっしりと重く、アランの友情が込められているように感じられた。涙が滲んできて、私は慌ててそれを袖で拭う。


「必ず、無事でいること。そして……いつか、お前の作った薬草菓子とやらを、食わせてくれよ」


アランはそう言って、いつものようにぶっきらぼうに、でもどこか優しく私の頭をポンと叩いた。


別れの時が来た。名残惜しさはあったけれど、振り返ってはいけない。私はしっかりと頷き、彼に深々と頭を下げた。


「ありがとう、アラン。あなたのことは絶対に忘れない。……行ってきます!」


馬に跨り、手綱を握る。乗馬は幼い頃から嗜んでいたので、すぐに慣れた。アランは馬の鼻面を一度撫で、私に小さく頷いた。それが最後の合図だった。

私は馬の腹を軽く蹴り、夜の森へと駆け出した。背後でアランが見送ってくれている気配を感じながらも、一度も振り返らなかった。


月明かりのない森は暗く、馬の蹄の音と、風が木々を揺らす音だけが響いている。時折、梟の鳴き声が遠くから聞こえてくる。心細さがなかったと言えば嘘になる。けれど、それ以上に、これから始まる新しい人生への期待感が、私の胸を大きく膨らませていた。


(私はもう、籠の中の鳥じゃない)


夜明けが近づく頃、森を抜け、緩やかな丘陵地帯に出た。東の空が、わずかに白み始めている。昇り始めた太陽の光が、まるで私の前途を祝福してくれるかのように、世界を金色に染め上げていく。


私は馬を止め、その美しい光景を胸に刻み込むように見つめた。


昨日までの私は、もういない。今日から、私はただのリリアーナ。自分の足で立ち、自分の手で未来を切り開くのだ。


アランが教えてくれた町、「ハルモニア」。そこが、私の新しい人生の最初の目的地。薬草の知識を活かして、人々の役に立ち、そしていつか自分の小さなお店を持つ。その夢に向かって、私は今、確かに一歩を踏み出したのだ。


手綱を握り直し、私は再び馬を進めた。昇る朝日が、私の背中を温かく照らしていた。

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