第2話 信頼の蕾と秘密の計画
月の光だけが頼りの深夜、私は息を殺して王宮の長い廊下を進んでいた。侍女たちの目を盗んで自室を抜け出すのは、思ったよりも骨が折れた。手には、小さな革袋に入れた数種類の乾燥ハーブと、それを使って淹れるための携帯用の小さなティーセット。これが私の、最初の交渉材料だ。
目指すは、王宮騎士団の訓練場に隣接する、若い騎士たちのための宿舎の一室。そこに、私の唯一の希望、アラン・グレイフィールドがいるはずだった。
アランは、平民出身でありながら実力でのし上がり、若くして騎士団の中でも一目置かれる存在だ。無口で、愛想が良いとはお世辞にも言えないけれど、その瞳の奥には確かな誠実さと、不正を許さない強い意志が宿っているのを私は知っていた。そして何より、彼は私の「趣味」である薬草学に、偏見を持たない数少ない人物の一人だった。
幼い頃、私が薬草園で泥だらけになって薬草を摘んでいると、警備任務中だった彼が呆れたように、でもどこか面白そうに眺めていたのを覚えている。一度、彼が訓練で負った切り傷に、私が調合した特製の止血軟膏をこっそり渡したことがある。翌日、彼はぶっきらぼうに「効いた」とだけ言って、私の頭をくしゃりと撫でて去っていった。その時の、少し照れたような彼の横顔が忘れられない。
宿舎の裏口にたどり着き、アランの部屋の窓を小さな石で軽く叩く。約束もない深夜の訪問だ。警戒されても仕方がない。しばらくすると、窓がわずかに開き、中から低い声がした。
「誰だ?」
「……リリアーナです。アラン、少しだけ話があります」
私の名を告げると、窓の隙間から覗く影が息を呑むのが分かった。やがて、静かに扉が開かれ、眠そうな目をこすりながらも、驚きを隠せない表情のアランが立っていた。彼は私服の簡素なシャツ姿で、いつもより少し幼く見える。
「リリアーナ様?こんな夜更けに、一体どうなさったのですか。何か緊急のご用件で?」
彼の声には、純粋な心配と戸惑いが滲んでいた。私は意を決して、まっすぐに彼の目を見つめた。
「アラン、お願いがあります。私を……この王宮から逃がしてください」
一瞬の沈黙。アランの目が、信じられないものを見るように大きく見開かれた。
「……は?今、何と仰いました?」
「聞こえたでしょう?私はここを出たいの。自由になりたい。そのためには、あなたの力が必要なの」
アランはしばし絶句していたが、やがて深い溜息をつき、私を部屋へと招き入れた。彼の部屋は質素で、剣や訓練道具が整然と置かれている以外には、ほとんど私物らしいものは見当たらない。
「リリアーナ様、本気で仰っているのですか?王女である貴女が宮殿を抜け出すなど、どれほど危険なことか……それに、一体なぜ?」
椅子を勧められ、腰を下ろした私は、持参した革袋からハーブを取り出し、彼の前で手早くティーポットにお湯を注いだ。カモミールとリンデンフラワー、そして少しだけ鎮静効果のあるバレリアンの根をブレンドした、特製の安眠ハーブティーだ。
「これを飲みながら聞いて。最近、眠りが浅いのでしょう?目の下に隈ができているわ」
私の言葉に、アランは少し気まずそうに自分の目元に触れた。図星だったらしい。騎士団の任務は過酷で、特に最近は隣国との緊張もあって、彼も心身ともに疲弊しているのかもしれない。
立ち上る湯気と共に、優しいハーブの香りが部屋に満ちる。アランは疑念の目を向けながらも、差し出されたカップを手に取り、一口含んだ。そして、目を見張った。
「これは……確かに、心が落ち着くような……」
「私の得意なことは、これくらいだから。でも、この知識があれば、外の世界でもきっと生きていけると思うの」
私は、グランスター帝国との政略結婚の話、自分の意志で人生を選べないことへの絶望、そして、薬草の知識を活かして自立したいという夢を、飾らない言葉でアランに伝えた。彼が黙って聞いてくれるのを良いことに、私は堰を切ったように話し続けた。薬草を使ったお菓子を作って、たくさんの人を笑顔にしたいという、まだ誰にも話したことのないささやかな野望まで。
話し終えると、アランはカップを置いた。彼の表情は硬いままだ。
「リリアーナ様のお気持ちは分かりました。ですが、これはあまりにも無謀です。貴女が宮殿から姿を消せば、国中が大騒ぎになる。それに、外の世界は貴女が思うほど甘くはありません。王女としての生活しか知らない貴女が、一人で生きていくのは……」
「一人じゃないわ」私はアランの言葉を遮った。
「あなたに手伝ってほしいの。もちろん、危険な役目を押し付けるつもりはない。でも、安全なルートや、身を隠せる場所についての助言が欲しい。それに、もしもの時のために、少しだけ護身術も教えてもらえたら……」
アランは腕を組み、難しい顔で考え込んでいる。王女の脱走を手助けするというのは、騎士としての忠誠に背く行為だ。もし発覚すれば、彼自身もただでは済まないだろう。そのリスクは、私にも痛いほど分かっていた。
「なぜ、私なのですか?他にもっと頼れる者がいるのでは……」
「あなただからよ、アラン」私は真剣な眼差しで彼を見つめた。「あなたは、私のことをただの『王女様』としてではなく、一人の人間として見てくれている気がするから。そして、私の薬草の知識を、くだらない遊びだなんて思っていないでしょう?」
私の言葉に、アランはハッとしたように顔を上げた。彼の瞳が、わずかに揺れる。
「……確かに、貴女の作る薬草茶や軟膏には、何度も助けられました。その知識と腕は本物だと認めています」
「なら、信じてほしい。私は、自分の力で生きる覚悟ができているわ」
しばらくの沈黙の後、アランは再び深い溜息をついた。だが、その表情には先ほどのような険しさはなく、どこか諦観にも似た、そしてほんの少しの共感のようなものが浮かんでいた。
「……分かりました。そこまでのお覚悟と計画があるのなら、私にできる限りの協力はしましょう」
「本当!?」思わず私は声を上げた。信じられない、という気持ちと、感謝の気持ちで胸がいっぱいになる。
「ただし、条件があります」アランは真剣な目で私を見据えた。「第一に、無茶はしないこと。第二に、必ず私の指示に従うこと。そして第三に……どんな形であれ、貴女の無事を知らせる手段を確保すること。いいですね?」
「ええ、約束するわ!」私は力強く頷いた。
そこから、私たちの秘密の計画が始まった。アランは地図を広げ、王宮の警備が手薄になる時間帯やルート、国境を越えるための比較的安全な道筋を検討し始めた。私は、自分の持ち物の中から本当に必要なものだけを選び出し、変装のための地味な服や、当座の資金として母から譲り受けた宝飾品をいくつかリストアップした。
「脱出の決行は、三日後の新月の夜が良いでしょう。月のない夜は闇が深く、紛れやすい。それまでに、必要なものを揃え、貴女には最低限の護身術を叩き込みます」
アランの言葉は頼もしく、私の心に勇気を与えてくれた。
「ありがとう、アラン。本当に……何とお礼を言ったらいいか」
「礼など不要です。ただ……貴女の選んだ道が、本当に貴女を幸せにすることを願っていますよ」
アランはそう言うと、少しだけ寂しそうに微笑んだ。その笑顔は、いつものぶっきらぼうな彼とは違う、優しい響きを持っていた。
部屋を出る頃には、東の空が白み始めていた。協力者を得られた安堵感と、計画が具体的に動き出したことへの興奮で、私の心臓はまだドキドキと高鳴っている。
(もう後戻りはできない。でも、後悔もないわ)
私の手の中には、アランがそっと握らせてくれた、小さな革袋に入った乾燥肉と硬いパンがあった。「道中の足しに」とぶっきらぼうに渡されたそれは、どんな豪華な食事よりも温かく、私の胸を満たした。
自由へのカウントダウンが、静かに始まった。
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