パッションヒル

杉野みくや

パッションヒル

 夏に差しかかった夜の風を浴びながら、高尾は2件目のバーの扉を開いた。


 華金でも休日でもない、平日の22時。そんな時間にここを訪れたのにはちゃんと理由がある。飲料品メーカーで企画部に所属している高尾は、次に売り出す新商品を模索しているところだった。テーマは「自分へのご褒美に贈る、今までにないカクテル風のチューハイ」。

 この「今までにない」という部分のハードルがとにかく高い。最初のうちはあれこれ提案してみたが、どれも納得を得るまでには至らなかった。次第に提案できるレパートリーは減っていき、思いつくものもありきたりなものが増えてきてしまっていた。このままではいけないと考えた高尾は、新たなアイデアを求めるためにバー巡りを始めたのだ。


 空いている席に座ると、小さな紙のメニューがさっそく目に入った。

 ソルティドッグ、モヒート、モスコミュール、シンガポールオレンジ──。ここ最近、肝臓が心配になるほどいろんなバーに通っているおかげで、メジャーなやつから少しマイナーなものまで一通り飲んではいる。もちろん、いま目にしているカクテルについても例外ではない。だが、どれも革新的な商品の種となることはなかった。

 今日もダメなのか、とやや諦め気味にメニューをなぞっていると、最後の一品に目がとまった。


「パッションヒル?」


 聞いたことのない名前だ。直訳すると、「情熱の丘」といったところだろうか?

 名前すら知らなかったそのカクテルが気になった高尾はマスターを呼んだ。


「ご注文でしょうか?」

「はい。パッションヒルをお願いします」

「かしこまりました」


 マスターは渋い声で言葉を返すと、さっそく棚からジンを取り出した。なるほどジンベースなのか、と頭にメモしていると、続けてマスターが取り出したものに思わずぎょっとした。マスターの手に、イタリアンでよく見る赤い液体の入ったボトルが握られていたからだ。


(おいおい、タバスコ入れるなんて聞いてないぞ……)


 実を言うと、高尾は辛いものがあまり得意ではなかった。さっそく後悔をにじませながら、シェイカーに落とされる赤い液体を終始薄目で見つめていた。

 次にマスターが手にしたのは、小さくカットされたブラッドオレンジといくつかのラズベリー。それらをブレンダーで粗くすりつぶし、シェイカーに注ぎ込む。いよいよ味の想像がつかなくなってきた。最後にホワイトキュラソーが注がれると、マスターはそれらを見事なシェイカー捌きで混ぜ合わせる。


 そうしてグラスに注がれたパッションヒルだが、思った以上に赤の主張がかなり強い。こんなこと言うと失礼かもしれないが、トマトジュースだと言われても信じてしまいそうな色合いだ。

 この中にタバスコが入っているのか、と物怖じしていたが、頼んだからにはきちんと飲まないとそれこそ失礼だ。グラスの足をやや力強く持つと、おそるおそる口に運んだ。


 カクテルが舌に触れたとたん、ピリッとする辛さがまず襲ってきた。その直後にベリーのような甘い風味とつぶつぶした食感が口全体を優しく覆う。喉の奥に流れていくと、爽やかなオレンジの香りが鼻を突き抜けていく。一口で辛み・甘み・後味の爽快感を味わえる、なんとも不思議な体験だった。


「当店オリジナルのカクテル、お気に召しましたでしょうか?」


 はっと正面を見ると、マスターがニコリと微笑んでいた。


「はい。こんな味は初めてです」

「それは良かったです。では引き続き、贅沢な香りの旅をお楽しみください」


 マスターは小さくお辞儀をすると、別の席へと歩いて行った。

 それを目で追いながらもう一口。すると奥の壁に、一枚のポスターが貼られていることに気づいた。深紅のドレスに身を包み、情熱的な踊りを披露する女性の姿。

 それを見た瞬間、頭の中に電撃が走った。

 これか! 俺が求めていた、今までにないカクテルは!

 そう感じた高尾はさっそくスマホを取り出し、この出来事と頭に降ってきたアイデアを忘れないようメモし始めた。


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 半年後、高尾が発案した新たなチューハイ『紅』はまさに飛ぶように売れていた。一度にたくさんの風味を味わえる贅沢と、情熱を持って何かに取り組む人たちへのご褒美というコンセプトが「ありそうでなかったオトナのご褒美」と話題になったのだ。


 少し無茶なテーマだったが、あのバーで得たヒントのおかげで乗り越えることができた。ようやく肩の荷が下りた高尾は、パッションヒルを考案したマスターに感謝しつつ、自室で優雅に紅を嗜んでいた。

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パッションヒル 杉野みくや @yakumi_maru

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