それでも、私は生きている。ー執筆と運動

クライングフリーマン

それでも、私は書き続ける。

 三年前、私は脳梗塞になった。

 既に心筋梗塞を経験し、手術を受けていた。

 だから、そんなにショックでは無かった。

 医師は、「心筋梗塞の時のような血の塊の小さい奴が脳に跳んだのではないか?」と説明した。

 症状は、目だった。オーロラのようなものが3筋、左から右へ流れたのだ。

 テレビを観ていた時のことだった。

 目薬を指したが、緩和しない。

 目眩のような、ふらふら感もあった。左腕にしびれがある。

 血圧は。。。高い。

 私は救急車を呼んだ。

 入院は、三日間。検査の結果、一時的な症状が無くなったから。

 まだ、世間ではコロナが収束に向かう途中だった。

 だから、救急車で運ばれてすぐ、コロナの検査をされた。

 陽性では無かった。

 入院中、変化があった。

 シンメトリーのモノが、左側が狭く見えるのだ。点滅しているモノを見逃すこともある。例えばケータイ等の着信ランプだ。

 コロナでなく、MRIも異常性がないから、早期退院になった。

 退院してから、徐々にシンメトリーが判別出来ない症状は出なくなった。

 だが、左の手首から肘までの麻痺は残った。

 私は、特に湿布や痛み止めを処方されなかったから、それまで以上にPCでキーボードを叩いた。

 誰もが信じられないと言うが、年月を経て、左腕の違和感(麻痺)は、緩和されて行った。

 点滅見逃しはあるものの、信号機の見落としはない。

 飽くまでも、小さな「灯り」である。

 眼科には、月イチ定期健診するようになった。

「視野狭窄」予備軍であり、「緑内障」予備軍ではある。でも、何とか平常に戻っている。

 遺伝的なものもあるのだろうか?母は脳梗塞が遠因で、寝たきりになった。

 その母も昨年11月亡くなった。

 私は以前にも増して、創作を続けている。

 母の介護生活の途中で「膝関節症」が昂じて左膝の軟骨が無くなって行った。

「脊柱管狭窄症」の為、右の腰や尻に常に違和感やしびれがあり、まともな体位で眠れない。

 それでも、私は生きている。

 十年以上通院して居る整形外科・内科併設のフィットネスに通い、鍼灸院に通い、フィットネスが始めた「オンラインレッスン」に参加している。

 出来ない運動もある。無理な運動はしない。整形外科のリハビリにも通っている。私は主治医に「ウォーキング禁止」を言い渡されている。左膝の軟骨が「ほぼ無い」のだから、インナーマッスルとアウターマッスルで繋がっているだけの脹ら脛と太ももを、「体重移動」の工夫その他でカバーするしかない体では、10分以上の立位や歩行が困難だからである。

 一時、「ウォーキング信仰」が流行った。妹は、私より12歳も年上の義弟にウォーキングを盛んにやらせた。今はやらせていない。それが答である。

 健康に甘えている人は、調べもせずに、すぐ野放図に批評したがる。運動不足は体に良くない、メニュー作って運動すべきだ、と。

 体に疾患を抱えていて、「小さな親切大きなお世話」をしたがる人には、こう言えばいい。「貴方の医療資格は?アドバイスに最後まで責任持てますか?」

 体調の悪い時は、痛み止め注射や点滴を受ける。

 それでも、私は生きている。

 地位も名誉も財産も、家族すらない私のライフワークとして見付けた「執筆」は止まらない。

 それでも、私は生きている。

 ―完―



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