救われないね、私たち

間川 レイ

第1話

かちゃかちゃ、と。フォークとお皿を打つ音がこだまする。そこは小洒落たレストラン。シックな木目のテーブルを、キャンドルと間接照明が穏やかに照らしている。


コクの強いチェダーチーズの後味を、口に含んだ赤ワインで洗い流す。口に広がるふわりとした豊かな香りに、ため息を一つ。ああ、美味しい。そう、聞かせるでもなく呟く。そんな呟きを聞いてか聞かずか、同じようにグラスを傾けていた結衣も、本当にね、と。小さく呟く。会話を妨げないぐらいの音量で、ピアノソナタが流れているのもまた素晴らしい。くるくると中空を指差し、ショパンかな。そんな私の言葉に、さあ、忘れちゃった。そんな結衣の言葉。


いいお店じゃん。前から知ってたの?いや、Googleマップ先生に教えてもらった。お姉ちゃんらしいね、Google先生様々だ。些細なやり取り。そんな些細なやり取りさえ、酷く懐かしい。思えばそれも当たり前か。結衣と最後に会ったのはちょうど去年の今頃。結衣が大学2年に上がり、そろそろインターンも考えなくちゃいけないと話していた頃だったから、およそ1年は会っていない計算になる。ほんと久々、会えてよかった。そんな私の言葉に、私もだよとグラス越しに小さく微笑む結衣。その大きな瞳。黒々として大きな、私にそっくりな目をキュッと細めて。結衣はポツリと言った。


「そーいや、お姉ちゃん。お姉ちゃんって一人暮らし初めて何年ぐらいだっけ?」


「10年くらいかな」


そう答えると、はああ、と。重いため息をついて結衣は言った。


「いいな、一人暮らし。ほんと羨ましい」


そう言いながら机に突っ伏すようにする結衣。キャンドルを倒さないよう脇に避けつつ私は答える。決して結衣の目は見ないようにしつつ。


「だったら結衣も始めたら。バイトのお金、貯まってるんでしょ」


「無理だよ」


結衣は突っ伏した姿勢のまま、もごもごと言った。


「前にママに言ったの。一人暮らししたいなーって。一人暮らし羨ましいなーって。言いすぎたのか、死ぬほど怒られた」


「どれぐらい?」


「泣くぐらい」


「そっか」


そう言いながら私は俯く。はああああ。突っ伏した姿勢のままますます重いため息をつく結衣。行儀悪いよ。そう、つむじをつつきつつ声を掛ける。はあ、というため息を吐きつつ身を起こす結衣。


「実家は相変わらず?」


そんな私の言葉に、皮肉気に口の端を歪めながら即答する結衣。


「相変わらずだよ」


結衣は続ける。


「ママは気分屋、パパはいつも通り」


「大変だね」


私は呟く。我が意を得たりとばかりに大きく頷く結衣。


「でも、お姉ちゃんがいた頃ほどじゃない」


その言葉に思わず苦笑する。


「それはよかった」


まあ、そう言われても仕方がないことは重々承知している。何せあの頃はめちゃくちゃだったから。


「あの頃は酷かった」


私は苦笑しながら返す。大きく頷きながら結衣は言う。


「あの頃、お姉ちゃん毎日殴られてたもんね。殴られなかった日の方が少ないんじゃない?」


「そうかもね」


私は小さく苦笑する。立ち上げたばかりの事業が中々上手くいかず、常に苛立ちを放射していた父さん。そんな父さんに、だからやめときなって言ったのにと、そもそも結婚する時に独立だけはしないでねと言ったのにと、常に冷ややかな目を注ぐ母さん。そこに、生来の性格か、ただの反抗期か、反骨心むき出しの私。それを混ぜたらどうなるか。


答えは簡単。しっちゃかめっちゃかだ。父さんは些細なことで私を殴り、私は悲鳴を上げながらもキッと父さんを睨みつけ、その目はなんだと父さんはますます激昂する。髪を掴んで壁に打ち付け、思わず息が止まるぐらいの勢いで膝蹴りを喰らわせてくる。それでも私は睨むのをやめなくて。大体殴っている間に冷静になった父さんが、部屋に帰って勉強しろと私を解放する。


父さんがいなくたって要注意。父さんがいない分、普段の嫌味は私に向かう。ネチネチネチネチ。些細なことにまで目をつけ、これでは将来が心配だと殊更に嘆いてみせる。この時間違っても反抗的な態度を面に出すべきではない。さもないと、次の食事がシンクに捨てられているのを見る羽目になるから。


そんな家。そんな家だからこそ、私は言うのだ。今は、大丈夫なのと。結衣も昔、同じように殴られていたから。同じように罵声を飛ばされていたから。私は今だって覚えている。キレた父さんが思い切り結衣を蹴り飛ばして、まるでボールみたいに転がっていた結衣。父さんと母さんが言い争うたびに、お姉ちゃん遊ぼうと避難してきた結衣。その時無理矢理浮かべていた笑みをよく覚えているからこそ、私は言うのだ。今は大丈夫なのと。


結衣は、俯きながら小さく微笑んで。


「大丈夫だよ」


と言った。


「昔みたいに、殴られることはだいぶ減ったし。怒られることもだいぶ減ったよ。地雷さえ踏まなきゃね」


「そう」


私は呟く。ああ、やっぱり。そんな気持ちは飲み込んで。


結衣は大きく伸びをすると言った。


「ああ、本当に家、出たいなあ。結婚でもしてさ」


「そっか」


「子供とかも、欲しいよね」


私は小さく心の中で呟く。やめときなよ、結婚なんて。子供を産むなんて、そんな残酷なことはやめなよ。殴られ、怒鳴られ育った私達に真っ当な子育てができると思ってるの。どうせ、私達みたいなのを作り出すだけだよ。そう言いたかった。いや、一昔前の私、それこそ一緒に実家にいた頃の私なら間違いなく言っていただろう。なんでそんなことをいうのと。姉妹なのに、結衣のそう言うところがまるで理解できなくて。


でも、今では少しは結衣の気持ちもわかるから。そんな言葉は言えなかった。その代わりに私は言う。


「今回はいい人そうなの」


「んー、まあ、そこそこかな」


そう、笑みを浮かべる結衣を見ながら私は内心呟く。嘘つき。私は結衣に男を見る目がないのを知っている。前の彼氏だって、結衣にとっては初めての男だったのに、身体の相性が悪いと振られ、あまつさえ悪口さえ流されたと随分嘆いていた事をよく覚えている。それでも結衣は次の恋を見つけていく。恋をしてないと生きていられないんじゃないかってぐらい。まるで何かを埋め合わせるかのように。


人を好きになるってどんな気持ちだっけ、と思うぐらい恋をしていない私とは大違い。あるいは、そもそも人を好きになったことがないんじゃないかってぐらいの私とは。


私は言いたい。やめときなよ、そんな恋なんか。そんな恋なんて、所詮は。でも、そんな言葉言えるわけがない。だって私は、家を出れたのだから。だから私は大きくため息を吐く。


そんなため息に応じるように、結衣は小さく言った。


「救われないね、私達」


私は、ただ頷くことしかできなかった。










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救われないね、私たち 間川 レイ @tsuyomasu0418

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