都心の高層ビル群が地平線に沈むあたり、郊外のなだらかな丘陵地に、その家はぽつんと姿を現す。古いヴィクトリア様式の木造家屋は、周囲の自然と溶け合うように佇み、年代物の白いラップサイディングと緑青の屋根が、歳月を経てなお品格を湛えていた。


「綺麗な家だ」


 家の前には、小ぢんまりとした庭が広がっている。初夏の陽を浴びて咲き誇るラベンダーやユリ、整然と剪定された低木たちが、住まい手の几帳面さと優しい手のひらを想起させる。郵便受けには今日の日付の新聞が差し込まれ、ポーチの揺り椅子には編みかけの毛布が置かれていた。どこかからラジオの音楽が、風に乗ってかすかに流れてくる。

 

「ここが、ウィリアムの家...」

「よし、まずは、やつに罪を白状させる。お前がいけ」

「はっ?」

「そう緊張するな、歯をへし折ってから、舌の先端をペンチで切り落としてやれば、降伏するさ」

「なあ...僕には、そんなことできない...ですよ」

「いいから、行ってこい。練習だ」


 車から出ると、なんともいえぬ表情で家の玄関扉へと歩いていく。

 

 人は、確かにここに住んでいる。ただし、自己主張するような気配ではない。

 窓辺に立てかけられた読みかけの書物、裏庭で静かに鳴く風見鶏、週に一度だけ舗道に並ぶリサイクルの箱。生活の痕跡は散りばめられているが、それは自然の風景の中にそっと埋もれており、見る者の心に静かな余白を残す。


「ああ、こんなのどかな場所で...」


 センチネルシステムズに対するクラッキングは、おそらくライリーと同様の違和感を社会に対して抱いたことによるものであろう。そういう男をこれから始末しにいかなければならないと思うと、指先が震え、冷や汗が止まらない。


 インターホンを鳴らすと、相手はすぐに対応に出た。どこにでも居そうな普通の男だった。

「ウ、ウィリアム・ターナーさんですよね。市警の、ライリー・クロフォード巡査です」

「なんの用だ」


 車両から見張る上司の目線が気になるが、やはりライリーには命令を実行できなかった。

「今すぐ、逃げてくれ」

「は?」

「今すぐ」


 だが、車から降りてきた上司は

「違う、ライリー、こうやるんだ」

 

 目の前の男の顔に、上司の拳が飛び、彼の歯と血反吐が飛び散る。ウィリアムは倒れ、意識が朦朧としている。


 ライリーは悲鳴をあげる

「ひゃっ...」

「暴漢制圧用の特殊グローブだ。ここでも役立つみたいだな」

 

 そう言うと、上司はウィリアムにまたがり、彼を殴り始めた。


 ウィリアムは床に倒れたまま呻き声を漏らしていた。口から血が垂れ、前歯は二本、床板に転がっていた。痛みにのたうつその胸に、容赦なく膝が乗る。


「言え。お前の罪を」


 声は低く、冷えきっていた。まるで冬の鉄のように、情け容赦のない響きだった。

 

 ウィリアムは答えなかった。あるいは、答えられなかったのかもしれない。だがそれを確かめる前に、拳が降った。頬骨が砕ける音が、湿った破裂音となって小さな部屋に響いた。

 拳の主は一瞬だけ呼吸を整え、無言のままもう一度殴った。今度は鼻梁。骨が折れ、軟骨がずれて、血が滝のように流れ出した。


「やめろ……俺は……!」


 呻く声が血泡とともに漏れた。その顔はもはや人のものとは呼び難かった。腫れあがり、変色し、口も目も形を失っていた。だが、なおもその目は、どこかに罪悪を宿していた。ゆえに、容赦はなかった。


「何も知らないと?では、これはどうだ」


 無造作に手袋を外し、親指を男の砕けた頬にねじ込む。内部の肉が潰れ、悲鳴が空気を裂いた。


「分かったあああ!センチネルシステムズへのクラッキングだ...俺がやった!3番管区の監視データと、要注意人物リストの名前をを上から10人消した!」


 ウィリアムの発言の後に数秒の沈黙があった。上司の膝の重みが少しだけ軽くなる。呼吸が再び整えられる音が、玄関に戻ってくる。

 だが、床に転がる者には安堵などなかった。その顔には、砕かれた骨と共に、何かもっと根深いもの、魂の破壊の兆しが、じっとりと滲んでいた。


「そうか、ならば死ね!」


 ライリーの上司の重い最後の拳が振り下ろされた。

 肉が潰れる音が、静寂を裂いた。拳は寸分の迷いもなく頬を貫き、砕けた顎の骨が舌の上に散った。ウィリアムの目はすでに焦点を失い、歪んだ鼻梁の奥から濃い血が泡立って漏れた。彼は最後に何かを言おうとしていたが、顎の破壊で発音も叶わず、そのまま力なくただの肉塊と化した。


 ライリーは、口が半開きになり、ただそのイかれた光景を見ているしかなかった。


 だが、それだけでは終わらなかった。

 家の奥から赤ん坊の鳴き声が響いてきたのだ。


「なんだ、クズがまだいたのか」

 上司は家の奥の方へと小走りで行った。


 奥の部屋へ行ってみると、確かに赤ん坊がそこに居たのだった。

 ベビーベッドの中で小さく泣いていた。ぷくぷくの頬に涙の粒をこぼしながら、ふにゃふにゃと手足をばたつかせる。眉をひそめる表情もどこか愛らしく、頼りない泣き声が部屋の静けさにやわらかく溶けていた。

 

 ライリーは深く嘆く。

「ああ、くそ。僕らはなんてことを...」

 両手で顔を覆う。


 だが、彼の上司はその赤ん坊に銃を向ける。


「おいおいおいおい!待てって、よせ!」

「犯罪者の遺伝子を継いだ奴だぞ?」

「いやいや、その考え方はおかしいだろ!」

「よお、ライリー、こいつには親がもう居ないんだ」

「まだ母親がいるだろ」

「ウィリアムの妻のことか、そいつはウィリアムが白状しなかった時に備えて保険として捕まえておいたが、もう用済みで、さっき別の部隊がサメの餌にしたところだ」

「嘘だ、そんなあ...」

 驚愕に声が裏返る。

「だからもうこいつは孤児院に行くしかない。孤児院出身の連中はやらかすだろ?こいつが将来そんなふうになっちまったら責任は取れるのか」


 ライリーを強く押しのけて、容赦無く引き金に手をかけた。

 銃声が甲高く空気を裂いた。次の瞬間、標的の胴体が爆ぜるように崩壊した。特殊弾頭が骨を砕き、内臓を引き裂きながらベビーベッドの下へと抜けたのだ。

 鮮血と共に肺の破片が霧状になって宙に舞い、肋骨が破片となって床を叩いた。呻く間もなく、その周囲は肉片と臓器の飛沫で染まった。


 体のどの部位かもわからない肉片が飛び散り、ウィリアムの家には狂気の沈黙で満ちていた。


 ライリーはただ目を瞑って、その音を聞いていることしかできなかった。


「そんな、ああ、なんてことを...ああ」

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