第三十話 精神の海へ

レオンの意識が浮上した時、そこに世界はなかった。

上下も左右も時間すらも意味をなさない完全な無の空間。

ただ果てしない闇が広がっているだけだった。

これがソフィアの精神世界なのか。

レオンは愕然とした。

あまりにも静かで冷たく、そして空虚な世界。

生命の気配が一切感じられない。


(ソフィア…どこだ…!)


彼は心の中で叫んだ。

しかし声は音にはならず、ただ虚しく闇の中に吸い込まれていくだけだった。

アストラル・ダイバーを通じて仲間たちの声が遠く微かに聞こえる。

『レオン殿! 応答してください!』

『兄さん! 聞こえる!?』

だがレオンはそれに答えることができない。

この世界では彼は肉体を持たない、ただの意識体でしかなかった。


彼はただ闇雲にこの何もない空間を漂った。

焦りが彼の心を蝕んでいく。

このままでは俺の精神もこの闇に溶けて消えてしまう。

その恐怖が鎌首をもたげた、その時だった。


ふと彼の目の前に一つの小さな光が灯った。

それはまるで遠い星のようにか細く、しかし確かに輝いていた。

レオンはその光に引き寄せられるように意識を集中させた。


光に近づくにつれて、それは単なる光ではないことがわかってきた。

それは一つの『記憶の断片』だった。

ぼんやりとした映像が彼の前に浮かび上がる。

それは王宮の豪華な一室だった。

まだ幼いソフィアが、一人の優しそうな男性に本を読み聞かせてもらっている。

おそらく彼女の父親だろう。


『…だからね、ソフィア。知識というのはそれ自体に善悪はないんだ。それを使う者の心次第で世界を救う希望の光にもなれば、世界を滅ぼす絶望の炎にもなる。大切なのは、その力を何のために使うのかということなんだよ』


父親の言葉がレオンの心に優しく染み渡る。

これがソフィアの原点。

彼女の知への探求心の始まり。


次の瞬間、その光景は泡のように弾けて消えた。

そしてまた別の光が闇の中に灯る。

レオンは次々とその光を追いかけた。

そこには様々なソフィアの記憶が映し出されていた。

初めて魔導科学の実験に成功し、子供のようにはしゃぐ姿。

貴族たちからその才能を妬まれ、異端者と罵られる姿。

そして王国を追放され、たった一人絶望の雨に打たれながらこのアーク村へとたどり着いた日の記憶。


レオンはその一つ一つの記憶を追体験するたびに、胸が締め付けられるような痛みを感じた。

俺は何も知らなかった。

あいつがどれほどの孤独を抱え、どれほどの痛みに耐えてきたのか。

そのほんの一端に触れただけだというのに、心が張り裂けそうだった。


記憶の旅は続く。

アーク村での出会い。

カイティンとの最初の戦い。

そしてアルカディア連合の設立。

仲間たちと笑い合い、時にはぶつかり合いながらも一つの大きな家族となっていく温かい日々の記憶。

それらの光景はレオンの心を少しだけ温めてくれた。


しかし旅が進むにつれてソフィアの精神世界はその様相を変えていった。

穏やかな記憶の海は次第に荒れ狂う嵐の海へと変貌していく。

王都の地下聖堂。

聖女リリアンヌの狂信。

そしてソフィアが自らを犠牲にしたあの閃光。

それらの絶望的な記憶が巨大な黒い棘となって、レオンの意識を容赦なく突き刺した。


『私のせいで、みんなが…』

『私の知識が、世界を壊していく…』

『もう、疲れた…』


ソフィアの悲痛な心の声が嵐の中に木霊する。

彼女の魂は砕け散ったあの日から、この絶望の嵐の中でたった一人彷徨い続けていたのだ。


『レオン殿! 危険です! 精神汚染が急激に進行しています!』

『兄さん! 戻ってきて!』

現実世界の仲間たちの悲鳴のような声が遠ざかっていく。

レオンの意識もまたこの絶望の嵐に飲み込まれようとしていた。


(…冗談じゃねえ…)


レオンは最後の力を振り絞った。

(お前を一人で置いていくわけにはいかねえんだよ…!)

彼は嵐の中心へと意識を向けた。

そこには全ての絶望と悲しみが渦巻く巨大な闇の渦があった。

そしてその渦の中心に彼女はいた。

膝を抱えうずくまり、泣いている小さな少女の姿。

それはレオンが今まで見たこともない、弱々しくか細いソフィアの魂の核だった。

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