第二十四話:喪失の代償
脱出は、困難を極めた。宰相オルダスが、本気で彼らを葬り去ろうとしていたからだ。彼は、もはや自らの手を下すことすら放棄し、崩壊する地下聖堂そのものを、巨大な棺桶と変えようとしていた。『原初の揺り籠』から溢れ出す制御不能のエネルギーを、地下構造の各所に意図的に流し込み、連鎖的な崩壊を誘発させているのだ。それは、この場にいる者全てを生き埋めにしようという、悪魔の所業だった。
「急げ! 天井が落ちてくるぞ!」
ボルンの怒声が響き渡る。彼らは、今や迷路と化した地下水脈を、記憶と勘だけを頼りに突き進んでいた。頭上からは、絶え間なく岩盤が落下し、足元は、崩れた床によって奈落の口を開けている。数分前まで仲間だった闇鴉の兵士たちの、断末魔の叫びが、四方八方から聞こえてきた。オルダスは、彼らすらも、躊躇なく犠牲にしていたのだ。
レオンは、ソフィアを腕に抱いたまま、先頭をひた走っていた。彼の思考は、半分以上が麻痺していた。ただ、腕の中にいる、か細く、温かい存在を守ること。その一点だけが、彼の足を前に進める原動力となっていた。ソフィアの呼吸は、か細く、途切れ途切れだった。彼女の身体から霧散していく光は、勢いを増している。それは、彼女の生命そのものが、指の間からこぼれ落ちていく砂のように、失われ続けていることを意味していた。
「このままでは、ソフィア殿の命が…! 一刻も早く、地上に出て、治癒を施さねば!」
殿を務めるエリアスが、苦悶の声を上げる。彼もまた、オルダスの腹心二人との戦いで、深手を負っていた。その上、崩壊する地下道の中で、一行を導くために、森の生命力を感知する能力を酷使し、その消耗は限界に近かった。
その時、一行の前に、巨大な鉄格子が立ちはだかった。王都の古い治水システムの一部だろう。しかし、崩落の影響で、その開閉装置は完全に破壊されていた。
「くそっ、行き止まりか!」
レオンが、忌々しげに舌打ちをする。迂回している時間はない。背後からは、地響きと共に、崩落の波が、すぐそこまで迫っていた。
「…ここは、わしに任せて、先に行け」
その絶望的な状況で、静かに言ったのは、ドワーフのボルンだった。彼は、巨大な戦斧を地面に突き立てると、仲間たちを振り返り、その皺だらけの顔に、豪快な笑みを浮かべた。
「この程度の鉄格子、わしの怪力があれば、こじ開けるのに造作もないわ。だが、少し時間がかかる。お前たちは、その時間で、ソフィア様を連れて、少しでも先に進むんじゃ」
「ボルンさん! 何を言って…!」
「問答無用!」ボルンは、レオンの言葉を、一喝の下に遮った。「お前さんの役目は、リーダーを守ることじゃろうが。わしの役目は、仲間たちの道を切り開くこと。それだけじゃ。さあ、行け! これは、隊長の命令じゃ!」
彼の瞳には、微塵の迷いも、恐怖もなかった。ドワーフとしての誇りと、仲間への愛情だけが、そこにあった。レオンは、歯を食いしばり、何も言えずに、ただ、深く頷いた。それが、仲間の覚悟に対する、最大の敬意だと知っていたからだ。
「…すまない」
「気にするな。アルカディアで、わしの作ったエールを飲むのを、楽しみにしておるわい」
それが、最後の言葉だった。レオンたちが、ボルンがこじ開けたわずかな隙間を通り抜けた直後、背後で、鉄格子を支えていた彼ごと、巨大な岩盤が全てを押しつぶす、凄まじい轟音が響き渡った。
犠牲は、一人では済まなかった。シルヴァンの斥候ライラは、味方を逃がすための罠を仕掛ける最中に、崩落に巻き込まれた。他にも、名も知らぬ、しかし、アルカディアのために命を賭けた勇敢な兵士たちが、次々と闇の中に消えていった。その度に、レオンの心は、少しずつ、確実に、死んでいった。
どれほどの時間が経っただろうか。彼らは、ついに、見覚えのある場所へとたどり着いた。森の奥深く、エリアスが開いた、『隠された道』の入り口だ。エリアスは、最後の力を振り絞り、再び、古の言葉を唱えた。岩壁が、陽炎のように揺らめき、外の、懐かしい夜の光が差し込んでくる。
「…行け!」
エリアスは、仲間たちを押し出すようにして、叫んだ。
「わしは、ここで、この道を完全に封鎖する。二度と、王都の者共が、この聖域を汚すことがないように…」
「エリアス様まで!?」
「これも、長としての、わしの務めじゃ」エリアスは、穏やかに微笑んだ。「レオン殿、ソフィア殿を…アルカディアの光を、頼んだぞ…」
それが、レオンが聞いた、長老の最後の言葉だった。彼が、生き残った数名の仲間と共に、外へ転がり出た瞬間、入り口は、二度と開くことのないよう、絶対的な静寂と共に、完全に閉ざされた。
森の、湿った土の匂いがした。夜明け前の、冷たく澄んだ空気が、肺を満たす。彼らは、生還したのだ。しかし、その場に、歓声はなかった。出発した時、十数名いたはずの仲間は、今や、レオンを含めて、たったの五人になっていた。そして、彼の腕の中では、アルカディアの希望の象徴であったはずのソフィアが、今や、いつ消えてもおかしくない、風前の灯火となっていた。
レオンは、ゆっくりと、その場に膝をついた。腕の中のソフィアの顔を、呆然と見下ろす。彼女の頬は、雪のように白く、その唇からは、血の気が完全に失われている。作戦は、成功したのだろうか。儀式は、確かに阻止した。だが、そのために失ったものは、あまりにも、あまりにも大きすぎた。これは、勝利などではない。これは、紛れもない、惨憺たる敗北だった。
夜明けの光が、木々の隙間から、彼らの疲弊しきった姿を、静かに照らし始めた。その光は、まるで、彼らが支払った犠牲の大きさを、無慈悲に浮き彫りにしているかのようだった。
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