第二十五話:灰色の夜明け

夜が明けていく。

しかしその光は、希望を運んではこなかった。

森の木々の隙間から差し込む朝日は、まるで血を洗い流した後のようにどこまでも白々しく、そして冷たかった。

それは生き残った者たちの、空虚な心の色を映しているかのようだった。


レオンはソフィアを抱いたまま、その場にどれだけ膝をついていただろうか。

彼の感覚は完全に麻痺していた。

森の湿った土の匂いも頬を撫でる冷たい風も、遠くで鳴く鳥の声も、まるで厚いガラスを一枚隔てた向こう側の世界の出来事のように現実感がなかった。

彼の世界の全ては今やその腕の中にあった。

か細い呼吸を繰り返し、その身体から魂の光を霧散させ続ける、ソフィアという砕け散った一点に収縮していた。


「…レオン」

生き残った仲間の一人、若いシルヴァンの治癒師であるフィーネが、おずおずと声をかけた。

彼女もまた顔は土と涙で汚れ、その瞳は仲間を失った悲しみと目の前の惨状に対する無力感で深く翳っていた。

彼女の隣では同じく生き残った二人の人間の兵士が、無言で、しかし互いを支えるようにして立っている。

彼らの鎧はへこみ無数の傷が刻まれ、その奥にある魂もまた同じように傷つき、疲弊しきっていた。


「…俺の、せいだ」

レオンの唇からか細く、乾いた声が漏れた。

「俺が、あの時、怒りに任せて飛び出さなければ…。ソフィアが、あんな無茶をする必要はなかった。俺が、もっと冷静でいれば、ボルンも、ライラも、エリアス様も…死なずに済んだんだ…!」


その言葉は自責の念というにはあまりにも深く、救いのない自己への呪詛だった。

彼はただソフィアを守りたかった。

アルカディアを守りたかった。

だがその結果がこれだった。

守るべきものの中心を自らの手で危険に晒し、そしてかけがえのない仲間たちを死地へと追いやった。

その事実が鉛のように、彼の心に重くのしかかっていた。


「そんなことはありません」

フィーネは静かに、しかしはっきりと否定した。

「あの状況で、あなたが怒りを覚えるのは当然のことです。そして、ソフィア様のご決断はあの場で我々が生き残るための唯一の選択でした。誰のせいでもない。私たちは、ただ力が及ばなかった…。それだけです」


彼女の言葉は気休めではなかった。

絶望の淵にいてもなお事実を客観的に見つめようとする、シルヴァン族特有の理性がそう言わせていた。

だがその理性的で正しい言葉ですら、今のレオンの心を慰めることはできなかった。


「…ソフィアは、もう…」

レオンの言葉が途切れる。

その先を口にすることができなかったのだ。

ソフィアの身体から霧散する光はいよいよ勢いを失い、今にも完全に消え失せようとしていた。


その時だった。

フィーネは意を決したようにレオンの前に膝をつくと、震える手でソフィアの額にそっと触れた。

彼女の掌から淡い緑色の優しい治癒の光が放たれる。

しかしその光はソフィアの身体に触れた瞬間、何の反応も示さずにただ虚しく霧散していった。

「…駄目です。通常の治癒魔術は一切受け付けません。彼女の魔力回路、いえ、魂の器そのものが完全に砕け散っています。例えるなら水を注ごうにも、その器が砂粒になるまで砕かれているような…」


フィーネは唇を噛みしめた。

無力だった。

シルヴァン族の中でも癒しの力に長けた自分が何もできない。

その事実が彼女を打ちのめす。

だが彼女は諦めなかった。

目を閉じさらに深く、自らの感覚を研ぎ澄ませていく。

彼女は治癒師であると同時に、生命の根源に触れるシルヴァンの秘術を学ぶ者でもあった。

エリアス長老がその才を見出し、手ずから教えを授けていた最後の弟子。


やがて彼女ははっと目を見開いた。

その瞳に信じられないという驚きと、そしてほんのわずかだが確かな光が宿っていた。

「…待って、ください。まだ…まだ、完全に消えてはいません…!」

「何!?」

レオンが弾かれたように顔を上げる。

「はい。砕け散ってはいますが、魂の核…その中心にある最も根源的な『一点』だけが、奇跡的にその形を保っています。それはまるで嵐の中で最後の熾火が消えずに残っているような…。あまりにもか細く脆いですが、確かにまだそこに『在る』のです!」


フィーネの言葉は完全な暗闇の中に灯された一本の蝋燭のようだった。

それはあまりにも頼りなく、今にも消えてしまいそうな光だったが、それでも闇は闇でなくなった。


「治せるのか!? ソフィアを、元に戻せるのか!?」

レオンはフィーネの肩を掴み、激しく揺さぶった。

「…わかりません」

フィーネは正直に答えた。

「通常の手段では絶対に不可能です。砕けた器を元に戻す術など私も知りません。ですが長老様がかつてお話してくださったことがあります。古代に存在したという、禁断の秘術について…」


彼女が語り始めたのはほとんどおとぎ話に近い、伝説の領域に属する話だった。

生命の設計図そのものに干渉し、魂を再構築するという神の領域に踏み込む大秘術。

『魂の再鋳造』と呼ばれる、その術について。

「その術を行うには三つのものが必要だと、長老様は仰っていました。一つは、術者の魂を削るほどの強大な生命エネルギー。もう一つは、魂を繋ぎ止めるための強固な『楔』となる触媒。そして、最後の一つは…」


フィーネは言葉を切り、レオンの腕の中のソフィアを見つめた。

「…失われた魂の欠片を全て集め、再構築するための核となる『器』。つまり、彼女自身の強い『生命への意志』です」


その言葉にレオンは絶望的な気持ちになった。

最後の条件があまりにも厳しすぎたからだ。

意識のないソフィアに、どうやって生きる意志を問うというのか。


だが彼は腕の中のソフィアの顔を見た。

雪のように白い頬。

血の気の失せた唇。

しかしその顔は不思議と安らかに見えた。

まるで全ての責務から解放され、ようやく休息を得たかのように。

違う、とレオンは思った。

こいつはこんなところで終わりを望むような女じゃない。

いつだって諦め悪く前だけを見て、無茶な理想を追いかけていた。

そうだ。

あいつはまだ戦っているはずだ。

俺たちには見えない、魂のその奥深くで。


レオンの瞳に再び力が戻った。

それは怒りでも悲しみでもない。

ただソフィアを信じるという、一点の曇りもない決意の光だった。

「…アルカディアに、帰るぞ」

レオンは静かに、しかし力強く言った。

「帰って、ソフィアのラボで、その『魂の再鋳造』とやらをやってみる。必要なものは全て俺たちが用意する。だから、お前は俺に協力してくれ、フィーネ」


「…はい!」

フィーネは力強く頷いた。

他の二人の兵士も無言で、しかし固い決意の表情で頷き返す。

彼らの心は一つになった。

絶望的な敗北の中から一つの、あまりにもか細い希望の糸を全員で手繰り寄せるのだと。


レオンはソフィアの身体をさらに強く、しかし優しく抱きしめ、ゆっくりと立ち上がった。

夜明けの光が彼らの顔を照らす。

それはもはや敗北を映す灰色の光ではなかった。

失われた多くの命を背負い、それでも前へと進もうとする者たちの覚悟を試すかのような、厳粛な光だった。

アルカディアへの長く、そして過酷な帰路が今、始まった。

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