第二十三話:崩壊の序曲
時間が凍りついた。
レオンの絶叫だけが、シンと静まり返った地下聖堂に木霊する。
その声は驚愕でも悲嘆でもなく、彼の魂そのものが引き裂かれるような原初の叫びだった。
彼の視線の先、魔導増幅装置の中央でソフィアの身体が、まるで壊れた人形のようにぐったりと垂れ下がっている。
聖女リリアンヌから流れ込んだ規格外の魔力奔流をその一身に受け止めた代償は、あまりにも大きかった。
彼女の生命線である魔力循環は完全に破壊され、その白い肌には内側から迸るエネルギーによって無数の亀裂が走る。
そこから血の代わりに、魂の欠片のような青白い光が静かに、そしてゆっくりと霧散していく。
その光景はあまりにも非現実的で、美しく、そして残酷だった。
その瞬間まで戦場を支配していた喧騒が嘘のように消え失せた。
誰もがその中心で起こったカタストロフに言葉を失い、動きを止めていた。
仲間であるアルカディアの精鋭たちも、敵である『闇鴉』の兵士たちも等しく、自らの指導者が生命を賭して成し遂げた、あるいは神聖な儀式を汚した女の末路に、ただ呆然と立ち尽くしていた。
沈黙を最初に破ったのは宰相オルダスだった。
彼の顔からはこれまで浮かべていた余裕綽々の笑みも、儀式を中断されたことへの驚愕も消え、代わりに凍てつくような無表情が浮かんでいた。
それは自らが心血を注いで築き上げた完璧な数式が、想定外の変数によって最も美しい部分を破壊されたことに対する、静かでしかし底知れない怒りの現れだった。
「……面白い。実に、面白い」
オルダスの声は凪いだ湖面のように静かだったが、その底には全てを飲み込むような激情が渦巻いていた。
「己が身を触媒とし、エネルギー流路を強制的にバイパスさせるか。なんと愚かで、なんと独創的で、なんと美しい解法だ。ソフィアとか言ったか。お前のような存在が辺境の泥の中に埋もれていたことこそ、世界の損失であったな」
彼はまるで極上の芸術品を前にした鑑定家のように、ソフィアを称賛した。
だがその瞳は、もはや彼女を人間として見てはいなかった。
彼の興味は、その類稀なる才能が死という形で失われることへの、純粋な惜別の念へと移っていた。
「だが、博奕は博奕。そして、お前は負けたのだ。儀式は中断されたが、『揺り籠』への点火は完了した。もはやこの流れは誰にも止められん。お前が稼いだ時間は、お前自身の命が燃え尽きるまでの、ほんの僅かな猶予に過ぎん」
オルダスの言葉を裏付けるかのように、『原初の揺り籠』がその脈動をさらに激しくさせた。
ソフィアが作り出したバイパス回路は、彼女自身の生命力が尽きかけていることでその制御を失い始めていたのだ。
行き場を失った膨大なエネルギーが『揺り籠』の内部で暴走を始め、その影響で地下聖堂そのものが悲鳴を上げるように軋み始めた。
天井から巨大な石塊が次々と落下し、壁には巨大な亀裂が走る。
世界の終わりを告げる、崩壊の序曲だった。
「ひっ…! な、なんですの、これは…!」
祭壇の上で、聖女リリアンヌが初めて狼狽の色を見せた。
彼女が夢見た神聖な降臨の儀式は、今やただの破壊と混沌へと姿を変えていた。
「案ずるな、我が聖女よ」
オルダスは崩れゆく聖堂など意にも介さず、優雅な仕草でリリアンヌに手を差し伸べた。
「これは、新しき世界が生まれる前の、些細な陣痛に過ぎぬ。さあ、こちらへ。我らは、高みから旧世界の終わりを見届けようではないか」
彼はリリアンヌを伴って、祭壇の背後にあった隠し通路へと姿を消そうとする。
その視線はもはやソフィアたちを捉えてはいなかった。
彼にとってこの崩壊する空間に取り残された者たちは、旧世界と共に滅びゆく過去の遺物に過ぎなかった。
その時だった。
「――待てよ」
地の底から響くような低い声。
それは全ての感情が抜け落ち、ただ純粋な殺意だけが凝縮されたようなレオンの声だった。
彼はゆっくりと顔を上げた。
その瞳は赤く、赤く燃え上がっていた。
悲しみも絶望も、その灼熱の怒りの前では燃え尽きて灰と化していた。
「てめえだけ、行かせるかよ…!」
レオンの身体から凄まじい闘気が噴き上がった。
それはこれまでの彼とは比較にならない、まるで限界を超えた先にある力。
ソフィアという彼にとっての世界の中心が破壊されたことで、彼の内に眠っていた何かがその枷を破壊して覚醒したのだ。
彼はもはや人間ではなかった。
傷ついた同胞を守るため、全てを破壊し尽くす一頭の怒れる竜だった。
レオンは地面を蹴った。
彼の動きを阻もうとした闇鴉の兵士たちが、まるで紙屑のように弾き飛ばされる。
彼の目標はただ一人、宰相オルダス。
ソフィアをあんな姿にした全ての元凶。
その首をこの手で刎ねることだけが、彼の唯一の行動原理となっていた。
「レオン! 待て、冷静になれ!」
ボルンの制止の声も彼の耳には届かない。
エリアスもまた二人の幹部を辛うじて抑え込んでいる状況で、レオンを止める術はなかった。
「愚かな…。獣に成り下がったか」
オルダスは迫り来るレオンを冷ややかに見据え、指を鳴らした。
すると彼の前に立ちはだかったのは、あの仮面の鎌使いだった。
「ここは、私が」
「いや、下がれ」
オルダスはそれを制した。
「この獣は、私が直々に躾けてやろう」
オルダスはその手に一本の細身の剣を構えた。
それは儀礼用に使われるような華美な装飾の施されたレイピア。
しかしその切っ先がレオンに向けられた瞬間、剣は空間そのものを歪ませるほどの禍々しい暗黒のオーラを纏った。
レオンの大剣とオルダスのレイピアが衝突する。
轟音と共に凄まじい衝撃が聖堂を揺るがした。
レオンの山をも砕く一撃を、オルダスは柳に風と受け流すようにいとも容易く捌いていたのだ。
彼の剣技はレオンのそれとは全く異質だった。
力ではなく、技でもない。
まるで相手の動き、筋肉の収縮、その思考の先までをも『予知』しているかのような、超常的な剣術だった。
「無駄だ。お前の怒りは直線的で読みやすい。お前が剣を振り下ろそうとする、その刹那の未来が私には見えている」
オルダスはレオンの猛攻を捌きながら、的確に急所を狙って反撃を繰り出す。
レオンの身体に次々と浅いが、しかし的確な傷が刻まれていく。
戦いの趨勢は明らかだった。
このままではレオンは嬲り殺しにされる。
そしてソフィアもこの崩壊する聖堂と運命を共にする。
アルカディアの仲間たちは絶望的な状況に、為す術もなかった。
その時、か細いが凛とした声が響いた。
「…レ、オン…さん…」
ソフィアだった。
彼女は奇跡的にまだ意識を保っていた。
彼女は朦朧とする意識の中、最後の力を振り絞り、自身の腕に埋め込まれていた通信用の魔導装置に指を触れさせた。
「…皆さん…聞こえ、ますか…。作戦は…失敗、です…。これより…撤退、を…」
その声はレオンの怒りに燃える心を、現実に引き戻すための最後の楔だった。
彼は憎悪に燃える目でオルダスを睨みつけながらも、動きを止めた。
そうだ。
俺がここで死んだら、誰がソフィアを。
誰がアルカディアを守るんだ。
「…撤退だ! 全員、ソフィアを確保して、脱出するぞ!」
レオンは血反吐を吐きながら叫んだ。
その言葉を合図に、アルカディアの精鋭たちは一斉に反転し、ソフィアの元へと駆け寄った。
「逃がすと思うか?」
オルダスが冷酷な笑みを浮かべ、とどめの一撃を放とうとした、その時。
「お前の相手は、まだ終わっておらんぞ!」
エリアスが二人の幹部を強大な自然の力で一時的に拘束し、オルダスの前に立ちはだかった。
そしてボルンがその怪力で巨大な石柱をへし折り、レオンたちの脱出路を確保するために敵との間に巨大な壁を作り出した。
「ソフィア!」
レオンはようやく彼女の元へとたどり着いた。
彼はボロボロになった彼女の身体を、壊れ物を扱うかのようにそっと、優しく抱きかかえる。
その身体は恐ろしいほどに熱く、そして羽のように軽かった。
「…ごめん、なさい…レオン、さん…」
ソフィアは彼の腕の中で安心したように、そう呟くと、今度こそ完全に意識を手放した。
「行くぞ!」
レオンはソフィアを固く抱きしめ、崩壊する聖堂を背に、仲間たちが切り開いた唯一の脱出路へと向かって走り出した。
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