第二十一話:狂信の聖女

通路の隙間から覗き込んだ光景はソフィアたちの立ててきた作戦計画の全てを、根底から、そして無慈悲に覆すものだった。

凍りついたように動けない仲間たちの背後で、ソフィアは自身の呼吸の仕方すら忘れかけていた。

思考が真っ白に染まる。

救出すべき対象であったはずの聖女リリアンヌが、世界の破滅を心から望む狂信者。

その事実は計算され尽くした方程式の、最も重要な前提条件を根こそぎ奪い去るに等しかった。

彼女の脳がかつてない速度で回転を始める。

なぜ。

どうして。

ヴァルミントンの告白にはこの事実が欠落していた。

いや、彼自身も知らなかったのか。

あるいは教団内でも最高機密に属する事項だったのか。

あらゆる可能性が瞬時に思考の海を駆け巡っては、確たる答えを見つけられずに消えていく。


「なんてことだ…」

レオンが絞り出すような、絶望の色を濃く滲ませた声で呻いた。

彼の脳裏に浮かんでいたのは民衆からの絶大な人気を一身に集め、慈愛に満ちた微笑みを振りまいていた聖女の姿だった。

あの清廉な姿が全て偽りだったというのか。

あるいは宰相オルダスによってその純粋さを捻じ曲げられ、狂信へと導かれてしまったのか。

どちらにせよ事態は最悪を通り越していた。

哀れな犠牲者を救い出すという大義は今や、一人の狂信的な少女を世界のために『排除』するという、血塗られた責務へと変貌を遂げていたのだ。


「ソフィア…どうする。あいつを…あの娘を止めなければ、世界が…」

レオンの問いかけにソフィアは答えられない。

リリアンヌを傷つける、あるいは殺害する。

それは物理的にも倫理的にも、そして何より魔導科学的にもあまりにも危険な賭けだった。

彼女の肉体は今や『原初の揺り籠』と、王都地下に張り巡らされた巨大な魔導増幅装置とを繋ぐ生きたコンデンサーと化している。

彼女の生命活動、その魔力の流れが断たれた瞬間、蓄積された膨大なエネルギーがどこへ向かうのか誰にも予測がつかない。

最悪の場合、制御を失ったエネルギーの奔流が『揺り籠』を暴走させ、計画の阻止どころかむしろ破滅の引き金を自分たちの手で引くことになりかねない。


そのソフィアの葛藤を見透かしたかのように、静かに佇んでいたエリアスが重い口を開いた。

「…あれは、洗脳などではない。あの娘の魂は自らの意志で歓喜に打ち震えておる。己が身を捧げることで世界が『浄化』されると、心の底から信じきっておるのじゃ。あれは、純粋すぎるがゆえに最も御し難い、魂の在り方じゃ…」

シルヴァンの長老の言葉が最後の希望的観測を打ち砕く。

説得の余地はない。

彼女は自らの意志で世界の終焉を望んでいる。


その瞬間、地下聖堂の空気がさらに密度を増した。

宰相オルダスが祭壇の中央で両腕を天に掲げたのだ。

「時は来た! 偽りの神々が作り上げた歪んだ秩序に終焉を! 我らが真の神、『アブソリュート・ワン』の御名において世界を原初へと還すのだ! 祈れ、我が聖女よ! 新世界の産声となる、破滅の福音を!」


オルダスの宣言に呼応しリリアンヌは恍惚の表情をさらに深め、その瞳を閉じた。

彼女の唇から古の言語による祈りの言葉が、歌うように紡がれ始める。

すると彼女の身体からこれまでとは比較にならないほど強烈な、純白の聖なる魔力が溢れ出し、祭壇の周囲に設置された水晶の柱へと吸い込まれていった。

水晶はその魔力を禍々しい紫色のエネルギーへと変換し、『原初の揺り籠』へと送り込んでいく。

『揺り籠』はまるで巨大な心臓が鼓動を早めるかのように、その明滅の間隔を急速に縮め始めた。

ゴオオオオ…という地鳴りのような低い唸りが地下聖堂全体を揺るがし、壁から砂塵がぱらぱらとこぼれ落ちる。


儀式が最終段階へと移行したのだ。

もう一刻の猶予もない。


「…戦うしか、ないようだな」

レオンが大剣の柄に手をかけ、覚悟を決めたように言った。

ドワーフのボルンも巨大な戦斧を静かに肩に担ぎ直す。

他の精鋭たちもそれぞれの武器を構え、リーダーの決断を待っていた。


だがソフィアは静かに首を振った。

「いいえ、駄目です。力任せに突入すれば、それこそが敵の思う壺。あの儀式を力で止めることはできません」

彼女の瞳は絶望的な状況下で、しかし不思議なほど冷静に眼前の光景を分析していた。

彼女が見つめていたのはリリアンヌでもオルダスでも、『揺り籠』でもない。

聖女と『揺り籠』とを繋ぐ巨大で複雑な魔導増幅装置、そのものだった。

血管のように張り巡らされた魔導回路、エネルギーの流れを制御する無数の水晶、そしてそれら全てが集約される中央のコア。


「…あの装置…。あれはただエネルギーを増幅させているだけじゃない。リリアンヌ様の聖属性の魔力を、揺り籠を覚醒させるための『鍵』となる特殊な波長の魔力へと『変換』している…。つまり、あの変換プロセスさえ断ち切ることができれば…!」

ソフィアの脳裏に一つの、あまりにも大胆で無謀な作戦が閃いた。

「リリアンヌ様を直接攻撃する必要はありません。彼女の生命活動も魔力の放出も止めない。ただ、そのエネルギーが『揺り籠』に届く前にその流れを別の方向へ逸らすのです!」


それは暴走する大河の流路を、巨大なダムを破壊せずに別の水路を瞬時に掘削して変えるような、神業に近い離れ業だった。

「…できるのか、そんなことが」

レオンが信じられないという表情で問う。

「わかりません。でも、やるしかない」

ソフィアはきっぱりと言い切った。

「レオンさん、ボルンさん、そして皆さんは私とエリアス様が装置に到達するまでの活路を切り開いてください。敵の狙いはあくまでも儀式の完遂。何よりもリリアンヌ様と装置を守ろうとするはずです。その一点に私たちの勝機があります」


ソフィアの瞳にはもはや迷いはなかった。

それは科学者としての探究心でも指導者としての責任感でもない。

ただ共に生きる仲間たちと、自分たちが築き上げてきたアルカディアというささやかな希望を理不尽な終末から守り抜くのだという、純粋で燃えるような意志の光だった。

彼女は最後の確認をするように仲間たちの顔を見渡し、そして力強く頷いた。


「皆さん、死なないでください。そして、必ず、生きて帰りましょう」


その言葉を合図にアルカディア連合の精鋭たちは、通路の闇から光差す破滅の舞台へとその身を躍らせた。

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