第十話 キチンと戦慄の群れ
辺境の地に芽生えた「アルカディア連合」という小さな希望は、西の森から立ち上る黒煙によって、早くもその存亡を試されることになった。生存者の男がもたらした、知的で統率の取れた未知の魔獣――その報告は、評議会に集った人間とシルヴァンの間に、重苦しい沈黙を落とした。
「…確かめに行く必要があるな」
沈黙を破ったのは、レオンだった。彼の顔には、恐怖よりも先に、仲間を襲われたことへの怒りと、未知の脅威に立ち向かうという猟師としての覚悟が浮かんでいる。
「危険すぎる。相手は、ただの魔獣ではないのかもしれない」
エリアスが、静かに、しかし力強く反対した。シルヴァンの長として、無用な犠牲は避けたいという彼の判断は当然だった。
「だからこそです」ソフィアが、二人の間に割って入った。「相手が何者か分からない以上、このまま待っていても状況は悪化するだけ。情報を集めなければ、対策の立てようがありません。最小限の精鋭で、調査偵察隊を編成することを提案します」
ソフィアの瞳には、科学者としての冷静な分析と、共同体のリーダーとしての決意が宿っていた。彼女の言葉には、誰もが納得せざるを得ない説得力があった。
結局、調査隊はソフィア、レオン、そしてエリアスの三名を中心に、アーク村の腕利きの猟師数名と、森での隠密行動に長けたシルヴァンの斥候数名という、まさにアルカディア連合の精鋭と呼ぶにふさわしい編成となった。彼らは、最低限の装備と、ソフィアが即席で作り上げた数々の魔導科学の道具を携え、夜明けと共に出発した。
森の西側へ向かう道中、彼らが目にした光景は、想像を絶するものだった。森の木々はなぎ倒され、地面は無数の奇妙な足跡で埋め尽くされている。それは、どんな魔獣の足跡とも似ていない、昆虫のようでもあり、爬虫類のようでもある、幾何学的な模様を描いていた。そして何より、森に満ちるアストラルフォースが、奇妙に淀み、乱れているのを、ソフィアも、そしてエリアスも敏感に感じ取っていた。
「…何かが、森の理を歪めている」
エリアスが、苦々しげに呟いた。
やがて、彼らは目的地である、焼失した集落に到着した。そこは、かつて十数世帯が暮らしていたはずの、穏やかな村だった。だが今、その面影はどこにもない。建物は無残に破壊され、黒く炭化した柱が、まるで墓標のように天を突いている。鼻をつくのは、肉の焼ける異臭と、形容しがたい甘いような、それでいて腐臭にも似た奇妙な匂いだった。
「…ひどい…」
レオンが、言葉を失って立ち尽くす。村の広場だった場所には、夥しい数の血痕と、引き裂かれた衣服の切れ端が散乱している。だが、不思議なことに、犠牲者の遺体はほとんど見当たらなかった。まるで、捕食されたかのように…。
ソフィアは、冷静に周囲を観察し、証拠を集め始めた。地面に残された足跡、建物の破壊痕、そして、所々に落ちている黒光りする硬い破片。
「これは…キチン質? 甲殻類の殻と同じ成分ですが、異常なほどの硬度と、アストラルフォースに対する高い耐性を持っています」
ソフィアは、携帯用の分析器で破片を調べながら、驚きを隠せなかった。こんな物質、自然界に存在するとは到底思えない。
その時だった。
「来るぞ!」
エリアスが、鋭く叫んだ。彼の言葉と同時に、周囲の森の木々が、一斉にざわめき立った。そして、四方八方から、あの黒い甲殻を持つ魔獣たちが、音もなく姿を現した。
ソフィアは、その生物を「カイティン」と仮に名付けた。黒いキチンの甲殻は、まるで騎士の鎧のように身体を覆い、その関節部からは鋭い刃のような突起が生えている。頭部には、複数の赤い複眼が不気味に輝き、明らかに知性を感じさせた。その数は、およそ三十。彼らは、完全に調査隊の退路を断つように、完璧な包囲網を敷いていた。
「囲まれたか…!」
レオンが、槍を構えながら歯噛みする。シルヴァンの斥候たちが、背中合わせに円陣を組み、弓に矢をつがえた。
カイティンたちは、すぐには襲いかかってこなかった。ただ、赤い複眼でじっとソフィアたちを観察し、まるで獲物の弱点を探るかのように、その周りをゆっくりと旋回している。その動きには、一切の無駄がなく、恐ろしいほどの統率が取れていた。
「ソフィア、あれを見ろ!」
エリアスが指差した先、カイティンの群れの後方、一体だけ他よりもわずかに大きく、頭部の形状が異なる個体がいた。その個体が、微かに顎を動かすと、他のカイティンたちが一斉に同じ動きをする。
「…指揮官個体…!?」
ソフィアは息を呑んだ。この魔獣たちは、単純な群れではない。明確な指揮系統を持つ、軍隊なのだ。
指揮官個体が、甲高い鳴き声を発した。それが、攻撃の合図だった。カイティンたちは、三方向から同時に、波状攻撃を仕掛けてきた。ある部隊は陽動として正面から、ある部隊は側面から回り込み、そして残りの部隊は、シルヴァンたちの死角となる頭上から、木々の枝を利用して奇襲をかけてきた。
「くっ…!」
レオンが、正面から襲い来るカイティンの鋭い爪を槍で弾くが、その衝撃に腕が痺れる。カイティンの甲殻は、鋼鉄のように硬く、並大抵の攻撃では傷一つ付けることができない。シルヴァンたちが放つ矢も、その多くが甲殻に弾かれてしまう。
ソフィアは、戦況を冷静に分析し、叫んだ。
「弱点は関節部です! それと、腹部の装甲が比較的薄い! 複眼を狙って、動きを止めて!」
ソフィア自身も、試作の「高周波ブレード」――アストラルフォースを利用して刃を高速振動させ、切断力を高めた短剣――を抜き、レオンの死角をカバーするように動く。だが、敵の数はあまりにも多く、その連携攻撃は完璧だった。
数分間の攻防で、調査隊は数名の負傷者を出し、徐々に追い詰められていく。このままでは、全滅は時間の問題だった。
「エリアス様、レオンさん! ここは一度、撤退します! 私が道を開きますので、その隙に負傷者を連れて!」
ソフィアは覚悟を決めた。懐から、最後にして最大の切り札を取り出す。それは、アストラルコアの暴走からヒントを得て開発した、極小の「指向性アストラルパルス爆弾」だった。安定性を極限まで切り詰めた、一度使えば自分自身もただでは済まない危険な代物だ。
だが、ソフィアが爆弾を起動させようとした、その時。
森のさらに奥深くから、地響きと共に、カイティンたちとは比較にならないほど巨大なプレッシャーが放たれた。そのプレッシャーを感じた瞬間、あれほど獰猛だったカイティンたちが、一斉に動きを止め、恐怖に震えるかのように後ずさり始めた。指揮官個体ですら、明らかな怯えを見せている。
「…なんだ…? 今のは…」
レオンが、呆然と呟いた。
エリアスは、顔面蒼白になりながら、森の奥を見つめている。その瞳には、彼ほどの存在ですら、畏怖と呼ぶべき感情が浮かんでいた。
「…目覚めたのか…森の…深淵が…」
カイティンたちは、ソフィアたちへの攻撃も忘れ、一目散に森の奥へと撤退していく。まるで、もっと恐ろしい何かから逃げるかのように。
後に残されたのは、傷つき、混乱するソフィアたちと、森の奥から今もなお放たれ続ける、底知れないほどの強大なプレッシャーだけだった。
ソフィアは、冷や汗が背筋を伝うのを感じた。謎の通信が言っていた「目標の覚醒」とは、このプレッシャーの主のことなのか? だとしたら、自分たちは、ヴァルミントン公爵や、カイティンなどという小さな脅威を相手にしていたのではなく、もっと根源的で、この世界の理すらも覆しかねない、途方もない何かの目覚めに、偶然立ち会ってしまったというのだろうか。
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