第四話 招かれざる客、過去からの使者
男が差し出した羊皮紙に刻まれた紋章――それは、ソフィアの脳裏に鮮烈な記憶を呼び覚ました。アウリオン王国でも五指に入る有力貴族、ヴァルミントン公爵家。かつてソフィアが「汚れ役」として、その闇の部分に深く関わっていた家だ。そして、彼女の計画が破綻した際、最も早く手のひらを返した家の一つでもあった。
(ヴァルミントン公爵…あの老獪な狸が、今更私に何の用だというの…?)
ソフィアの表情が、一瞬にして氷のように冷たくなった。目の前の行商人を名乗る男――その胡散臭い笑顔とは裏腹に、油断ならない雰囲気を漂わせている――を見据える。
「ご紹介したい、とはどういう意味でしょうか。私はご覧の通り、辺境で静かに暮らす身。アウリオン王国の貴族様がお呼びになるような人間ではありませんが」
ソフィアは、言葉を選びながら、男の真意を探ろうとした。男は、ソフィアの冷ややかな態度にも臆することなく、芝居がかった仕草で肩をすくめる。
「いやはや、ご謙遜を。『森の賢者』様の噂は、遠く王都にまで届いておりますれば。特に、先のグレイファングの一件。あれほどの大群を、村人にも被害を出さずに退けたその手腕、ヴァルミントン公爵様も大変興味をお持ちでして」
男の言葉は、ソフィアの警戒心をさらに強めた。グレイファングの一件は、アーク村という小さなコミュニティでの出来事のはず。それが、これほど早く、しかも正確に王都の有力貴族にまで伝わっている。この男、あるいはその背後にいるヴァルミントン公爵が、以前からソフィアの動向を監視していた可能性が高い。
「それで、公爵様は私に何をお望みなのでしょうか。まさか、魔獣退治の方法でもお知りになりたいと?」
ソフィアの皮肉めいた問いに、男はわざとらしく咳払いをした。
「公爵様は、あなた様のその類稀なる『知識』にこそ価値があるとお考えです。そして、その知識を、アウリオン王国のために再び役立てていただきたい、と。…もちろん、それ相応の対価はお支払いする所存でございます」
男は、懐から小さな革袋を取り出し、ソフィアの目の前の机に置いた。チャリン、と硬貨の擦れる音が響く。中には、おそらく金貨が詰まっているのだろう。追放された身のソフィアにとっては、破格の金額に違いない。
「対価、ですか。私が追放された時のことをお忘れではありますまい。アウリオン王国は、私の知識を危険思想と断じ、私をこの地に追いやったはずですが」
ソフィアの言葉には、隠しきれない怒りと失望が滲んでいた。男は、困ったように眉を寄せた。
「それは…当時の政治的な判断、とでも申しましょうか。公爵様は、あなた様の才能を常に高く評価しておられました。ただ、あの時は、いかんせん状況が…」
(状況、ね。自分たちの保身のために、私を切り捨てたというのに)
ソフィアは、男の言葉を鼻で笑い飛ばしたい衝動に駆られたが、辛うじて抑え込んだ。感情的になるのは得策ではない。今は、相手の目的を正確に把握することが重要だ。
「それで、具体的にはどのような『お仕事』を?」
「それは…直接お会いして、公爵様ご自身からお伝えしたい、と。場所と日時を記した書状がこちらにございます」
男は、先ほどの羊皮紙とは別の、封蝋された書状を差し出した。ソフィアはそれを受け取らず、じっと男の目を見つめた。
「なぜ、私なのですか? 王国には、優秀な魔法使いや学者が大勢いるはずです」
「確かに、王国には多くの才ある者がおります。しかし、あなた様のような『発想』を持つ者はおりませぬ。既存の魔法体系に囚われず、全く新しい視点から物事を捉え、そしてそれを実用的な『技術』へと昇華させる力。それこそが、今のアウリオン王国に必要なものだと、公爵様はお考えなのです」
男の言葉は、ある意味で的を射ていた。ソフィアの強みは、前世の科学知識と、この世界の魔法を融合させる発想力にある。だが、それをヴァルミントン公爵のような人物が、本当に純粋な善意から求めているとは到底思えなかった。
(何か裏があるはずだ。私を利用して、何かを企んでいるに違いない)
ソフィアの脳裏に、様々な可能性が浮かんでは消える。ヴァルミントン公爵は、政敵を蹴落とすための新たな道具としてソフィアを使おうとしているのか。あるいは、ソフィアが開発した技術を独占し、さらなる権力を得ようとしているのか。それとも、もっと別の、ソフィアの想像もつかないような陰謀が隠されているのか。
「…お断りしたら、どうなりますか?」
ソフィアの問いに、男の笑顔が一瞬消え、冷たい光がその瞳をよぎった。だが、それも束の間、彼は再び人好きのする笑みを浮かべる。
「まさか。これはあくまで『お願い』でございますれば。しかし、公爵様は、あなた様のお力を心から必要とされております。できれば、賢明なご判断を期待したいところですな」
その言葉は、丁寧な口調とは裏腹に、明確な圧力を含んでいた。断れば、何らかの形で報復があるかもしれない。アーク村の平穏が脅かされる可能性も否定できない。
ソフィアは、机に置かれた金袋と、男が持つ書状を交互に見つめた。心の中では、激しい葛藤が渦巻いていた。過去の裏切りへの怒り、アウリオン王国への不信感、そして、この申し出の裏に潜む危険な罠への警戒心。しかし同時に、わずかながら好奇心も頭をもたげていた。ヴァルミントン公爵が、一体何を自分に求めているのか。そして、アウリオン王国は今、どのような状況にあるのか。
「…少し、考える時間をいただけますか」
ソフィアは、ようやくそれだけを口にした。男は、満足そうに頷く。
「もちろんですとも。良いお返事をお待ちしております。では、三日後に、またお伺いいたします」
男はそう言い残し、丁寧な一礼をして研究室を後にした。嵐が去ったかのような静けさの中、ソフィアは一人、深くため息をついた。
その夜、ソフィアはレオンに事の次第を打ち明けた。レオンは、ソフィアの話を聞き終えると、苦虫を噛み潰したような顔で唸った。
「ヴァルミントン公爵だと…? あの狸親父が、ソフィアさんに何の用だ。ろくなことじゃねえのは確かだな」
「ええ、私もそう思います。ですが、無下に断れば、この村に迷惑がかかるかもしれません」
「だからって、あんた一人を危険な目に遭わせるわけにはいかねえだろう。俺たちだって、あんたには散々助けられてんだ。今度は、俺たちがあんたを守る番だ」
レオンの力強い言葉に、ソフィアの胸は熱くなった。この辺境の村で得た絆は、彼女にとって何物にも代えがたい宝物だった。
「ありがとう、レオンさん。でも、これは私自身の問題でもあります。それに…少しだけ、気になることもあるのです」
「気になること?」
「ええ。あの男の言葉の端々に、今の王国の焦りのようなものが感じられました。もしかしたら、私が追放された後、何か大きな変化があったのかもしれません」
ソフィアの探究心が、再び頭をもたげ始めていた。危険を冒してでも、知りたいという欲求。それは、科学者としての彼女の本能だったのかもしれない。
三日後、再びあの男がソフィアの研究室を訪れた。ソフィアは、静かに彼を迎える。
「それで、お返事はいただけましたかな、『森の賢者』様?」
男の問いに、ソフィアはゆっくりと頷いた。彼女の瞳には、迷いの色はなかった。
「ええ。お話は、お受けいたします。ただし、一つ条件があります」
ソフィアの言葉に、男は意外そうな表情を浮かべた。彼女が条件を出すなど、予想していなかったのだろう。一体、ソフィアは何を要求するつもりなのか。そして、その決断は、彼女とアーク村に何をもたらすのだろうか。
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