第19話 水野奈緒②


夜が明けるのを待ち望んだ奈緒は、静かにアパートを抜け出した。博多行きの電車に乗り込んだ奈緒の胸には、巫女の力を持たない自分でも何かを成し遂げたいという、秘められた決意が燃え上がっていた。向かうは、雑誌に載っていた古びた井戸があるという猫島だ。

数時間後、奈緒はフェリーで猫島に到着した。船を降りると、潮風がふわりと頬を撫で、どこからともなく猫たちののどかな鳴き声が聞こえてくる。観光客で賑わう港から一歩路地に入ると、そこには時間がゆっくり流れるような、穏やかな風景が広がっていた。瓦屋根の古い家々が軒を連ね、軒先では三毛猫が日向ぼっこをしている。漁師たちが網の手入れをする音や、遠くで聞こえる波の音が、奈緒の心を少しだけ和ませる。しかし、彼女の胸のざわめきは消えることなく、むしろこの柔らかい雰囲気の中で一層募っていった。

雑誌の地図を頼りに細い坂道をたどり、ようやく目的の場所へと辿り着く。そこに佇んでいたのは、古びた石積みに苔が生い茂り、雑草に覆われた井戸だった。奈緒は、この井戸が、かつて貞子の負の感情の抜け殻を舞子たちが封印した場所だと知っていた。長い間、誰も手入れをしていないことが見て取れる井戸の底は漆黒の闇に沈み、何も見えない。そこには特別な力など何もない、ただの古い井戸にしか見えなかった。

奈緒は震える指で、井戸の縁にそっと触れた。その瞬間、彼女の心臓が大きく跳ね上がる。ゾクリと背筋を冷たいものが走り抜け、まるで井戸の底から何かが這い上がってくるかのような錯覚に陥った。それは、強烈な虚しさと、誰にも理解されない深い悲しみの感情だった。しかし、それだけではない。何か別の、より大きく、重い力が、井戸の奥で蠢いているような感覚に襲われた。

その頃、博多の喫茶店「海猫亭」で紗栄子と談笑していた貞子は、突然胸騒ぎに襲われた。心臓が握りつぶされるような激しい痛みと、全身を駆け巡る悪寒。それはまるで、遠く離れた場所で、何か大切なものが揺さぶられたかのような感覚だった。

「どうしたの、貞子ちゃん?」紗栄子が心配そうに尋ねる。

「いえ、何でもありません。ただ……」貞子は言葉を濁し、窓の外の青空を見上げた。しかし、その瞳には、言い知れない不安が宿っていた。「この感覚……まるで、井戸の封印が解けたような……まさか……」

貞子の脳裏に、かつて自身が負の感情の抜け殻と決着をつけた、猫島の古井戸の情景が鮮明に浮かび上がった。あの井戸は、ただの井戸ではない。この地の負の感情が流れ込む場所であり、それを封じるための要だったはず。貞子は急いでスマートフォンを取り出し、羽田栞に連絡を取った。

「栞さん、今すぐ猫島に行ってほしいんです。あの井戸の様子を……見てきてください!」

貞子の声には、普段の落ち着きからは想像できないほどの焦りが滲んでいた。電話口の栞は、貞子の尋常ではない様子に驚きながらも、すぐに事態の深刻さを察した。猫島で、一体何が起きているというのか。

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