仕事が終わり、俺は帰り支度をしていた。俺はぶらぶら揺れる感情を持て余して、自分の気持ちを整理できないでいた。

「鹿山さん」

 話しかけてきたのは、やはり田邊だった。

「何」

 自分思っている三倍くらい無愛想な声が出た。

「あの、さっきはなんか、すいませんでした」

 俺は笑う。

「なんでそっちが謝るの」

「いえ、あの、……その、……大丈夫、ですか?」

 田邊はそう言った。なんでもない言葉だった。多分、田邊も深く考えて発した言葉ではないんだろうと思う。だけどそのとき、俺にはその言葉が何よりもありがたかった。田邊の口調が、本当に心配そうだったのもあるだろう。

 しっかりしなくては、と思う。

「大丈夫、大丈夫だよ」

 言ってから、唐突に理解した。あのとき俺は、景にそう言ってやるべきだったのだ。

『大丈夫?』

 そう一言送信すれば、電話をかけて尋ねてやれば、景はもしかしたら死なずに済んだかもしれない。

 俺はわかっている。実際にはきっとそれは関係ないのだ。だってあのとき、景の携帯電話はもう、持ち主に二度と顧みられることはなかったのだから。俺がどんなメッセージを送ろうと、景はもうその時高く高く飛び立とうとしていたのだ。

 だけど、もしそうやって送っていれば、俺はきっと――。

 そう考えたら、俺の目から涙が溢れた。

 田邊は、急に泣き出した俺に驚かなかった。

 俺の涙を親指で拭い、田邊はこう言った。

「今日、ご飯行きませんか? 約束、してましたよね」


 俺は田邊とこの前と同じ居酒屋に向かった。道中、俺は田邊に全てを話した。

 自分がゲイであること、矢島景という親友と、その秘密を分かち合っていたこと。矢島景が牧野慎平に告白し、その事実が学校中に広まったこと。矢島は避けられるようになり、そして自殺してしまったこと。

 人に話すのは初めてだった。

 自分が話してまた泣き出してしまうのではないかと思ったが、大丈夫だった。大丈夫だった自分を冷たい人間だと思った。

 席につき、二人してソフトドリンクを注文する。店員が苦笑するが気にしない。

 おしぼりで手を拭きながら、田邊は言った。

「牧野ってひどいやつなんですね」

 田邊にそう言われて、そうなんだ、と思った。牧野はひどいやつなんだよ。

 田邊はシーザーサラダに手を伸ばす。俺は気になっていたことを聞いた。

「っていうか、……驚かないんだな、俺がゲイだって聞いて」

「だって、僕もそうですし」

 なんでもないことのように田邊は言う。

「え、……」

「僕もゲイですよ。それに、鹿山さんもそうなんだろうなーって、なんとなく察してました。だから別に」

 田邊のさらっとした態度に、俺はどう返していいのかわからない。

「あ、別に鹿山さんが特別ゲイっぽいとかそういうことじゃないですよ。でも俺なんとなくわかっちゃうんですよね、そういうのが」

「そう、なんだ」

 俺もシーザーサラダに箸を伸ばし、自分の取り皿に盛りつけた。しかし食べる気にならない。

「今から俺めちゃめちゃ失礼なこと言いますね」

 そうわざわざ前置きをして、田邊は言った。

「鹿山さんって、地球上にゲイは自分と景さんだけだって思ってません?」

「何、言ってんの、そんな訳――」

 ないだろ、そう言いかけてから、田邊の言葉の意味を理解する。田邊が何を言いたかったか理解する。多分、俺はそう思っている。いや、もちろん頭でそんなことはないと理解している。だけど、多分心の奥底でそう感じている。

 広い世界の中。

 俺と景だけが本物のゲイで、誰にも理解されない思いを抱えて戦っている。

 俺と景だけの小さな小さな世界。

 俺はそこに、他の誰にも踏み込んで欲しくないのだろう。

「鹿山さんは、矢島さんのことが好きだったんですか?」

 その質問に、俺は呆然として田邊を見つめていた、と思う。

 なぜなら俺は、そんなことを思ったこともなかったからだ。

 景と俺は運命共同体だったけれど、俺はそれ以上のものを何も景に求めていなかった。だから、俺は否定しようとした。けど。

「……いや、……」

 俺の声は思っていたより小さくて、意図的に声を強く出さなければならなかった。

「違う。俺は、景にそういう感情を持っていない」

「そうですか」

 田邊は意外にもすんなりと納得したようだった。だけれど俺は、田邊がなんだか信じていない気がして言葉を重ねる。

「本当だ、本当だよ。俺は景のことをそういう風に見たことはないんだ」

 景は俺の戦友だった。景はいつも俺の隣にいて、俺と一緒に戦ってくれた。

 景を、自分の汚い欲望に巻き込みたくなかった。

 俺は田邊の顔を見ることができず、手元にあるジョッキがかいた汗を俯いて眺めていた。ジョッキには『これはソフトドリンクです』と書かれている。

 それを指でなぞると、べったりと指先に雫がついた。


『鹿山さん、折り入って話があります』

 アルバイトの石田さんからそう個人メッセージが来る。

 それまでグループメッセージで連絡を取るだけだった石田さんからの唐突なメッセージだった。

『急かとは思いますが明日、お時間ありませんか?』

 職場の書店がある繁華街とは違う街で、石田さんは待っていた。何か相談なら職場近くにすればいいのに、余計変だ。

「すいません、お休みに呼び出して」

 石田さんは頭を下げる。普段の制服(白ワイシャツにスラックス)の石田さんを見慣れているので、私服姿は随分と印象が違った。なんというか彼女が女子高生という生き物なのだと改めて思い知る。

「いや、……気にしなくていいよ。それより、どうしたの」

「とにかく、行きましょう」

 そう言い、スターバックスへ向かう。彼女はフラペチーノを、俺はコーヒーを注文した。

 丸テーブルに向かい合って座る。

「あの、……」

 石田さんはかなり長い間黙り込んでから、

「こういうのってあんまりよくないと思ってるんですけど、あの、……」

 石田さんは、普段割とずけずけとものを言う方だ。だから、こんなに黙っているのは珍しかった。しばらくまた黙って、首を少しだけ左右に振ると、決心したようにこちらを見た。

 その目はいつもの石田さんだった。

「すいません、順序を追って話します」

 石田さんはそしてこう言った。

「私、田邊さんに告白したんです」

 俺は危うく飲んでいるコーヒーがを吹き出すところだった。気管に入りかけたそれを、軽く咳き込んで追い出す。

「そう、なんだ。それで――」

「フラれました」

 石田さんは、案外なんでもないことのように言う。俺は、だいたい話の流れが予想できた。

「それで、――あの、本当にこういうのよくないってわかってるんですけど――言われたんです、俺はゲイだからって」

「そう、なんだ」

 言って、思う。

 俺は、もっと驚くべきだっただろうか?

 リアクションが不自然ではなかっただろうか?

「だいたい、どうして私が鹿山さんを呼び出したかはわかってもらえたと思うんですけど」

 さすがの俺でも、事情は理解した。

「うん、それが事実かってことだよね?」

「そう、です。鹿山さん、田邊さんと仲良いから、何か知ってるのかなって。……すいません。こういうの、アウティングって言うんですよね? 授業で習いました。よくないってわかってるんですけど、どうしても確かめたくて」

 石田さんは何度も、これがよくないこととはわかっている、と言った。

 それは俺に、あの薄いビニール膜を思い出させた。多分石田さんにはそんなつもりはないし、俺の考えすぎなのだろうけど、どうしても、思い出さずにはいられなかった。

 石田さんの舌が、その単語に慣れていないのは明らかだった。

 久しぶりに、息苦しさを思い出す。

「石田さんは、それを確かめてどうしたいの?」

 俺は、質問に答えずに逆にそう訊いた。

「それ、は――」

 彼女の目が、少し泳いだ。石田さんにしては珍しい動きだった。彼女はおそらく、その質問への答えを持ち合わせていなかったのだろう。

「ごめんなさい、わからない、です。でも、とにかく確かめたくて……」

 石田さんはみるみる元気をなくした。泣きだしてしまうのではないかと心配になるくらいだ。俺は慌てて訂正する。

「あ、ああ、ごめんごめん。こっちも、追いつめるつもりはないんだ」

 しばらく、沈黙。互いに、注文した飲み物に口をつけた。コーヒーはもうだいぶぬるくなっていた。

 石田さんが言う。

「それで――何か、知ってますか?」

 何か。

 俺はこの状況では沈黙も意味を持ってしまうと思い、頭をここ数年で一番働かせる。

 仮に俺がここで田邊がゲイであることを認めたとしても、おそらく石田さんはそれを言いふらしたりはしないだろうし、何より田邊自身が認めていることなのだから、それが一番自然な気はした。

 しかし、おそらく彼女がそれをまだ信じきれていない状況で、それに『お墨付き』を与えてしまうのも、なんだか違う気がしたのだ。

 だから俺は。

「どうだろう……何も、聞いてないよ」

 これがベストな回答だと思う。だけど、ただの逃げかもしれない。

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