「そんなの、普通に認めてくれてよかったのに」

 バックヤードで田邊は言う。

「だって俺が自分でそう言ってるんだから、悩む必要ないじゃないですか」

「そう、だけど」

「鹿山さんって、割といつもそんな感じですよね」

「そんな感じって?」

「なんか、空気をうまく循環させることにすごい必死な感じ。空気を読むっていうのとは違うんですよ、なんていうか、……みんながなるべく苦しくならないようにすごく苦労してるように、俺には見えます」

 そう言われて、その通りだと思った。

 俺はいつも、そうやって場がうまく回ることに腐心している。

「でも、俺はそんな鹿山さん好きですよ」

 田邊がさらりと言う。俺は動揺してしまう。そして動揺した自分を馬鹿だと思う。それはそういう意味ではない。

「何言ってんのさ」

 俺がそう言うと、

「だって、なんか健気じゃないですか」

 それを聞いて脱力しながら、

「それ、年上に言うことかよ」

 そう話していると、真野さんが俺を呼んだ。電話がかかってきている、とのことだった。

 俺に電話?

 受話器を取ると、その向こうから聞こえたのは、牧野の声に違いなかった。


 牧野に指定された場所は、銀座のカウンター席しかない高級寿司屋だった。年季の入った木目の扉に、パリッとした暖簾がかかっている。

「こんなとこ、払えないけど」

 店頭に立つ牧野に俺は言う。

「俺が全部払う。呼び出したのはこっちだからな」

 牧野はそう言い、慣れた感じで店内に入って行った。

 俺は久しぶりの、もしかすると初めての回らない寿司屋に緊張していた。その緊張を打ち消すように怒りの炎にガソリンを注ぎながら、牧野の隣に座る。

「大将、とりあえず熱燗をふたつと、おすすめの握りを」

 おしぼりで手を拭きながら牧野は言う。

「あいよ」

 無愛想を顔に書いたような表情で大将は応じる。

「なんだよ、話って」

 しばらくの沈黙の後俺は切り出した。手元に運ばれてきた熱燗を、牧野は少しずつ飲んでいる。俺はその横顔を見た。高校を卒業後プロ入りし、好成績を残している野球選手。

 俺の人生と絶対に交わらない男。

 俺とこの男をつなげているのは矢島景という存在だった。

 こいつがわざわざ呼び出したのも、もちろんその話をするためだろう。

「お前は誤解してるよ」

 牧野はそう切り出した。そして腕を目の前のカウンターに置かれた大トロに伸ばし、大将に軽く会釈をすると口に運んだ。しばらく咀嚼をし、飲み込んだあとに言う。俺はその間、ずっと牧野をただ見ていた。

「あの話を広めたのは俺じゃない」

 牧野は言った。

「同じ野球部のやつ――確か、お前らと同じクラスだったはずだ――が、たまたまその場にやってきたんだ。あいつは面白おかしく俺に根掘り葉掘り聞いてきた。俺は何も言わなかった。だけどその翌日には、俺が男から――矢島から告られたことは公然の事実になっていた」

 大将が鰆の握りをカウンターの上に置いた。牧野が腕を伸ばす。お前も食えよ、そう言われるが、俺はじっと牧野を見ている。

「もったいないだろ、大将のおすすめだぞ」

 そう言われ、仕方なく俺はそれを口に運んだ。身に弾力性があることはわかったが、緊張のせいか味がまったくわからずまるでゴムでも食べているみたいだ。牧野は続けた。

「俺はちゃんと否定しなかった。否定するべきだったのかもしれない。そうすれば変な噂にはならなかったかもしれない。だけど、矢島は実際に俺に告白してきたんだから、それを否定するのは――なんというか、フェアじゃないって俺は思ったんだ」

 フェア。その言葉は、なんというか牧野にすごく似合っていた。俺はたぶん、そういう言葉を使わない。

「……びっくりしたよ、矢島に告白されたときは。だって俺たちは男同士だし、俺はゲイじゃない。だから、矢島の気持ちをそのまま受け入れることはできなかった」

 目の前にイカの握りが置かれる。牧野は顎の前で手のひらを組んで、それをじっと見つめていた。

「矢島は噂が広まったあと、俺に言ってきたんだ」

 組んでいた手をほどくと、肘をついたまま手のひらに頬を載せる。

「ごめんね牧野くん、変な噂になっちゃって、迷惑だよね、って。謝らなくていい、別にお前は悪くない、そう俺は言った」

 ようやく牧野はイカの握りを手に取った。そして食べた。俺はとてもではないけれどイカなんて食べられないと思う。それを察したのか、牧野は俺の分も手に取った。

 景から、そんな話は聞かされたことがなかった。俺の知らない景の姿。

「言い訳じみて聞こえるか?」

 牧野が言った。この話は、捉えようによってはまさに言い訳なのかもしれなかった。だけどそう思えなかったのは、牧野の話し方が誠実だったからだろう。

 だから俺は、何も言えなくなってしまった。

 何か言わないと。そう思っている俺に牧野が続ける。

「いつまでも、過去に囚われるのはやめた方がいい」

 過去。

 俺にとって景のことは、今でも『現在』だった。景が死んでしまっていたとしても、景が過去の人だとしても、俺にとってそれは『現在』につながっていて、現在そのものなのだった。昔のこと、終わったことだなんて思えない。

「景は、過去のことなんかじゃ……」

 俺はなんとかそれだけ言う。口の中がねばついた。

「俺だって、あいつが死んだって聞いたときはいろいろと悩んだよ。今だってときどき思い出すことがある。だけど、わかるだろう? あいつは死んでしまっているんだし、俺たちにできることはもう何もないんだ」

 なんで。

 なんでそんなことを言われなければならないのだろう。

「俺たちは今生きているんだ」

 牧野が言う。

「俺たちは、生きなきゃいけない」

 俺と景のことを何も知らないこいつに、なんでこんなことを言われなければならないのだろう。

 だけど俺は理解していた。この男はこの男なりに、ちゃんと景の死と向き合っているのだと。俺はそれを認めたくなくて、

「そんなことを言うために、わざわざ呼び出したのかよ」

 嫌味を込めてそう言った。

 だが、牧野は全く動じず、「そうだ」、とだけ言った。

「俺に掴みかかってきたお前を見て、ようやく合点がいった。大丈夫かって聞いた俺にあいつが言っていた、僕には運命共同体がいるんだって。それが、お前だろう?」

 俺は――そのときどういう顔をしていたのだろう。

 俺は嬉しかった。景に運命共同体だと思ってもらっていたことが。

 俺は悔しかった。景が俺たちの関係をこいつに話していたことが。

 俺は悲しかった。それなのに景が、俺を一人置いていったことが。

 俺は呆然とした。俺はあいつに何もしてやれなかったのだろうか?


 ひどく気分が悪い。

 酒なんてほとんど飲んでいないのに頭が痛かった。吐き気がした。

 俺は電柱に手をついて、思い切り胃の中のものを吐き出した。

 びちゃびちゃと溢れたそれは、ほとんどがただの胃液で、先ほど食べたはずの寿司は見当たらない。振り返れば、そもそも寿司なんてほとんど食べなかったんだった。

 勿体無い。あんな店など二度と行けないかもしれないし、牧野が払うのだからもっと好き放題に食べればよかった。

 でも、そうしたら今高級なまぐろやうにが俺の胃から蘇って、さぞ後悔していたことだろう。

 ――生きている。

 牧野の言葉が蘇る。

 ――俺たちは生きているんだ。

 俺は自分の手を見た。指先が細かく震えている。

 生きている? 俺は、生きているんだろうか。

 俺は、生きているんだろうか?

 気がつくと俺は、あのアパートの下に立っていた。


 どうしてここに来たのだろう。

 俺は何かを、誰かと話したかった。

 それができる相手は、いま、彼しかいなかった。

 俺は階段を上り、彼の部屋の前に辿り着いた。

 ――あいつはもう死んでしまっているんだ。

 牧野の言葉とともに、部屋の中が見えた気がした。それは、あの、首を吊った景の姿。

 俺にとって景のことは、今でも『現在』だった。

 俺にとってそれは『現在』につながっていて、現在そのものなのだ。

 だって今もほら、こんなに鮮やかに、景の姿が目に浮かぶ。月に照らされて揺れる景の姿が――。

 そちらに手を伸ばすと、突然扉が音を立てて開いた。部屋の中の明かりが眩しくて俺は目を細める。逆光でそこにいたのは、

「鹿山さん?」

 田邊圭だ。


 田邊の部屋に入る。明るい部屋の中の本棚は存在感がさらに増していた。

 なあ田邊、俺は――俺は生きているんだろうか?

 そう聞こうと思って、あまりに馬鹿げた質問だと思って目を伏せた。中学生ではあるまいし、今更そんな疑問を持て余すなんてどうかしている。

 ベッドサイドのローテーブルに、紙の束が置かれていた。

 そこには、俺の名前が書かれていた。そして、見覚えのあるタイトルも。

『ドストエフスキー作品における自己犠牲とその聖性』

「これ」

 俺はその紙を手に取る。

 それは、俺の卒論に違いなかった。

「ゼミの教授に勧められて」

 田邊が語る。

「うちの卒業生のすごい卒論があるから、絶対にこれだけは読んでおけ、って」

 田邊は言う。

「初めて鹿山さんの名前を聞いたとき、もしかしてって思いました。他の方から大学が一緒だって聞いて確信しました。これ書いたの、鹿山さんですよね?」

 俺は、その卒論のタイトルを指で撫でた。懐かしかった。そうだ、俺は確かにこれを書いたのだ。

 あのとき、俺は生きていたのだろうか? わからなかった。何も他のことを考えず、卒論だけに没頭していた俺は、あのときちゃんと生きていただろうか。卒論を書き終えて燃え尽きるように大学を卒業し、なし崩しに書店でバイトを始め、日々何の目標もなく過ごす俺は、生きていたのだろうか。

 いつから俺は、死んだように生きていたのだろうか。

 そんなのは、俺にもわかっていた。

 景。

 景が死んだあの日から、俺は。

 指の力が抜けて、紙の束が床に落ちた。

「鹿山さん?」

 それを拾いもしない俺に、田邊が声をかける。

 わからない。

 正しいやり方がわからない。

 ――俺は、俺はどうすれば景を救い出せる?

 あの真っ暗な部屋の中、ぶらぶらと揺れる景を、どうすれば救い出せる?

 俺は床に広がった卒論を見下ろす。これを書いた時、確かに俺はそんなことを考えていたはずだった。俺はその時、まだきっと景を救い出せると信じていた。

 でも、今は、何もわからない。

 俺は真っ暗な部屋の中。

 ぶらぶらと揺れているのは、誰だ?

「鹿山さん、俺はこの論文を読んで」

 俺は急に何もかもが怖くなる。それを最後まで聞いたら、決定的に何かが変わってしまう。だから俺は身をかがめて、強く耳を塞いだ。

「鹿山さん!」

 くぐもった声が聞こえ、手を引かれた。田邊が、まるで母親がなだめるように俺を抱きしめる。

「大丈夫、大丈夫ですよ」

 そう聞こえた。

 そうだ、その言葉だ。俺の目に涙が滲み、体から力が抜ける。

 大丈夫。

 俺は大丈夫?

「大丈夫ですよ」

 本当?

 本当に?

「はい、大丈夫です」

 耳元で聞こえる声ばこそばゆい。だけど、暖かかった。

 その言葉が、俺をこの世界に繋ぎ止める。

 俺はゆっくりと、田邊の背後に手を回した。そして、田邊をぎゅっと抱きしめた。田邊は拒絶しなかった。彼が言う。

「俺はここにいます」

 そして、俺をより強く抱きしめる。

「鹿山さんも、ここにいます」

 抱きしめる手を少しゆるめて、目の前に顔を持ってきて言う。

「鹿山さんも、ここにいますよね?」

「ここに」

 いるよ、と言えなかった。俺は、本当にここにいるだろうか? それを言い切る自信がなかった。だとしたら、俺は本当はどこにいるのだろう?

 思い出す。地元から少し離れた繁華街のマクドナルドで景と待ち合わせて、二人ででかけたこと。ゲイをテーマにした映画を上映している小さな映画館に二人で行って、周りの客がゲイかどうかと盛り上がったこと。二人で水族館にいったこと。シャチのぬいぐるみを買いたがった景をからかったこと。

「俺はここにいます」

 田邊がもう一度言う。俺は理解する。

 俺は、ここにいない。

 俺がいるのは、景が生きていたその時間だけで――だからそれは、現在ではなかった。景が過去じゃないのも当たり前だ。俺は現在を生きていなかったのだから。田邊が続ける。

「俺は、鹿山さんにここにいてほしいです。今、ここに。俺の目の前に」

 俺は肩を揺さぶられ、どうしようもなく泣きそうだった。

「……どうして」

「そんなこと、聞かないでくださいよ」

 田邊が泣きそうな顔をする。俺の口から言葉がこぼれでた。

「なあ、田邊……俺は、俺は生きてるのかな?」

 田邊は驚きに目を見開く。

「わからないんだ。俺は、本当に生きているのか?」

 田邊の眼いっぱいに水が広がって、潤んだそれがこぼれ落ちた。

「――てますよ」

 田邊はまっすぐに俺を見つめる。

「鹿山さんは、生きてますよ。生きてるに決まってるでしょ。何馬鹿なこと、言ってるんですか」

 田辺は苦しそうにそう言うと、俺の唇を奪った。


 呆然とする俺の唇を割って舌が入ってくる。俺は息苦しくて顔を離そうとしたが、後頭部を掴まれて抵抗できない。

「ん、んんっ」

「――鹿山さん」

 唇を離した田邊が言う。

「したことありますか?」

 何を?

「セックス」

 田邊は言った。

「したこと、あります?」

 俺は恥ずかしかった。自分が未経験だと告げることが。三十にもなって、セックスすらまともにしたことないのだと言いたくなかった。

「ある、よ」

「嘘ですね」

 ぴしゃりと田邊は言う。

「嘘じゃない、俺だって経験の一人や二人くらい――」

「嘘ですね」

 ぐっ、と息を飲み込んだ。俺はほとんど泣きそうになりながら言った。

「それがなんだって言うんだよ! そんなの関係ないだろ!」

「関係ない? 本当にそう思ってるんですか?」

「おも――」

 田邊の顔を見たら、続きが言えなかった。続きが言える人間がいたら、そいつはよっぽどの鈍感か、残酷な人間かのどちらかだろう。

「田邊――お前――なんでそんな――」

 なんでそんな顔してるんだよ。

「鹿山さん」

 田邊は絞り出すような声で言った。

「俺と、セックスしてください。別にそれで何かが変わるとかそういうのじゃなくて――ただ、俺のわがままです」

「田邊」

「俺の、わがままだから! 景さんに申し訳ないとか思わなくていいんです。ただ俺に怒ってくれればいいんです、俺のことわがままだなって、そう思ってくれればいいので」

 俺は思い直す。やっぱり俺は、とても残酷な人間じゃないか。こんなことを言わせて。こんな顔をさせて。

 なんで、そんな俺のことを。

 田邊は返事も待たずに田邊は服を脱ぎ出した。

「ね」

 上半身裸になった田邊が言う。

 俺も、ゆっくりと服を脱いだ。

 俺と田邊はそのまま抱き合った。汗が滲んだ体は少しべたついていたけれど、不快じゃなかった。

「鹿山さんのにおいがする」

 田邊は俺の首筋に顔を埋めて言った。

「生きているにおいです」

 そう言って笑った。

「なんだよ、それ……」

 俺は不貞腐れる。でも、その言葉がゆっくりと俺の手足の先まで染み込むようだった。俺からは、生きているにおいがするんだ。

 俺も田邊のにおいを嗅いだ。少し甘いにおいがした。

「恥ずかしいから嗅がないでください」

 田邊は照れた。俺は笑う。なんだよそれ。


「鹿山さん」

 俺にまたがった田邊が確認する。「本当にいいですか?」

 俺の勃起したものの上に、田邊が尻を当てている。

「いいよ、好きにして」

 俺は言った。

「わかりました」

 田邊が、ゆっくりと腰を下ろす。

「っ――」

 苦しそうな顔をした。

「大丈夫か?」

「大丈夫、大丈夫です」

 田邊は顔に汗を滲ませながら笑う。

 俺は、体を起こして田邊に抱きついた。二人で抱き合いながら、俺は田邊に腰を打ち付ける。

 ――ただ俺に怒ってくれればいいんです、俺のことわがままだなって、そう思ってくれればいい。

 俺は田邊の汗の滲んだ肌に舌を這わせながら、そんな言葉を思い出す。

 田邊の汗はしょっぱかった。生きている人間からは、こんな味がするんだと思った。

 景。

 俺は多分、お前に怒っていた。他の誰よりも、俺はお前に怒っていた。

 俺はお前を救いたかった。

 お前は、俺に救われなければならなかった。

 だけどお前は俺に、救いの手を求めなかった。お前は一人で決めて、一人で勝手に行ってしまった。

 ――お前は、とてもわがままだよ。

 そして、俺もそうだ。

 俺はきっと、お前のことが好きだった。誰よりも、お前のことが好きだったんだ。

 俺はお前と二人きりで生きていきたかった。だから、牧野にフラれたと聞いた時、本当はすごく安心した。

 お前はきっと、それに気づいていたんだろう?

 だから――お前は死んだのか?

「鹿山、さん」

 泣きそうになった俺に、田邊が手を伸ばす。俺は指と指を絡めるようにその手を握り返す。ぐいと田邊が俺を引いて、俺の唇を奪う。

 俺は自分の舌と田邊の舌が絡み合うのを感じる。他人。自分と決して混じり合わない他人。だけど今、こうして体を重ねている。

 景。

 違う。今、俺の目の前にいるのは、――圭。

 何かが俺の中でぱっと芽吹くように目覚め、それはあっという間に大きく膨らんで俺のすべてを飲み込んだ。

 その感情の名前を、俺は知っている。

 俺はそんな自分の感情に動揺する。それはダメだと咄嗟に思う。俺のその動揺を察知したように、田邊がぐっと奥底まで俺を飲み込んで俺に抱きついた。

 ああ――。

 ――ああ!

 田邊の中に入った俺が硬くなる。

 俺の目の前で、田邊が笑う。少し照れているその笑顔が、とても愛おしいと思う。すごく、すごくかわいい笑顔だ。

 俺は思う。

 なあ景、ごめんな。俺はずっと自分の気持ちに蓋をしてきたけど、たぶん、本当は幸せになりたいんだ。俺はその感情を、とてもお前に申し訳なく思う。

 俺はお前と幸せになりたかった。

 でも、お前はそれを望んでいなかっただろう?

「鹿山さん」

 田邊が俺をまた抱きしめる。俺は田邊の背中に手を回し、田邊ときつく抱き合った。

 俺は幸せになりたいんだ。視線を横にやる。カーテンのかかった窓ガラスの外に、景がいる。それはあの首吊りの姿ではなくて――。

 俺はそっと口を動かし囁く。

 大好きだったよ。

 でも、今は……。

 ――なあ、お前なら、俺のことを許してくれるよな?

「大丈夫」

 誰かが言う。

「大丈夫だよ」

 俺は涙を流して、田邊の、――圭の中に、精を放った。


          *


「海に行きましょうよ」

 シャワーを二人で浴びて、服を着ると圭は言う。俺も服を着て、部屋から外へ出た。

 空はまだ暗かった。少し肌寒い夜空の中に、ほんのり朝の気配が漂い始めていた。

 田邊はバイクを持っていた。そのバイクの後ろに乗って、俺たちは海へ向かった。

 海辺に俺たちは辿り着いた。大きな観覧車が、静止して俺たちを見下ろしている。都内にこんな場所があったなんて知らなかった。

 ちょうど空は夜明けを迎えるところだった。澄み切った空気、誰も海辺にはいない。

 圭は靴を脱ぎ、足元のズボンを捲り上げると海へ入っていった。

「さすがに冷たいです、でも、気持ちいい」

 圭は笑う。

「ほら、鹿山さんも」

 そう言って手を伸ばす。俺は靴を脱いで海へと入っていく。圭の手を握る。その手は暖かかった。

 どこかで見た風景だと思う。でも、どこだろう? まあいい。今俺たちはここにいて、こうして手をつないでいる。

 俺の目の前に圭がいる。手を繋いでいるけれど、決して一つにはなれない、運命を分かち合った存在でもない。

 でも、今、何よりも愛おしいと思う存在。

 浜辺の水を蹴り上げると、鳥が水平線に向かって飛び立った。


(完)

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離陸 数田朗 @kazta

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