牧野慎平が本を出すことになったとネットニュースの記事で見かけた。自宅でできるトレーニングをまとめた筋トレ本らしい。トレーニングの写真の被写体はすべて牧野本人が務めており、それなりに気合の入った本になっているようだ。

 うちの本屋にも入ってくることにはなるだろう。だからスポーツ本のエリアにはしばらく立ち入らないでおこう、そう思っていた。

 だけど。

『「牧野慎平が教える! 自宅でできるトレーニング」刊行記念 牧野慎平サイン会 開催のお知らせ』

 その張り紙で、牧野慎平がうちの書店に来ることを知った。なんでうちの書店に、わざわざこいつが。そう思った。だけど、俺はただのアルバイトの一員だし担当売り場も違う、今何か話を振られていないということは当日関連する業務にあたることもないだろうと思った。

 当日、サイン会はつつがなく進行した。俺は自分の担当の文芸書売り場にいて、極力サイン会については意識しないようにしていた。時折レジに、今日のサイン会は何時からですかとか、サイン会の整理券を忘れてしまったのですが、などという問い合わせが来て、そのたびに俺は牧野のことを思い出さなければならなかった。サイン会の開催直前、バックヤードに移動するとき行列が見え、牧野のファン層は俺の想像より幅広いのを知った。見るからに野球が好きそうなおじさんだけでなく、若い女性の姿も多く見える。

 バックヤードに引き上げた俺は、無心でコンビニ弁当をかきこんだ。

 上の階のイベントスペースに、牧野がいる。意識しないでいようと思えば思うほど、俺の意識は頭上へ集中した。何を食べても味がしなかった。

「――鹿山さん!」

 誰かに急に、大声で呼ばれて驚く。見ると、田邊がいた。

「もう、何度も呼んだのに、無視しないでくださいよ――鹿山さん? 大丈夫ですか? 顔色悪いですよ」

 俺は田邊を見つめた。田邊はまっすぐこちらを見つめていた。

「ああ――大丈夫、大丈夫だよ」

「ほんとですか? すごい汗ですよ」

「汗?」

 言われて額を拭うと、べっとりと手のひらが濡れた。

「うん、大丈夫だよ、大丈夫……。もう、売り場戻らなきゃ」

 時計を見、本当はまだ休憩時間は十分残っていたが俺が現場に戻ることにした。これ以上ここにいると、本当に体調を崩してしまうかもしれない。

 俺は立ち上がりバックヤードから売り場へ戻る廊下の扉を開ける。

 台車に乗った本が点々と置かれそこを歩く。

 そして売り場に戻ろうと次の扉に手をかけたとき――扉が勝手に、向こう側へと開かれた。

「あ」

 そこには、牧野がいた。俺は、どうしていいかわからなかった。牧野。牧野。牧野がいる。気がつくと俺は食い入るように牧野を見つめていた。俺は怒っていたのではなく、ただ呆然と、何かどうしようもない、とりかえしのつかないものを見つめるように牧野を見ていた。

「あの……?」

 しばらくして、牧野が言った。俺はずっと、牧野の進行方向を塞いでいた。

「あ、すい、すいません……」

 そう言い、牧野に道を譲る。

「ありがとうございます」

 そう言い、牧野が俺の脇を通り過ぎる。俺は牧野の横を通り抜け、売り場に出ようと――

「すいません」

 牧野が、後ろから俺に呼びかけた。

「あの、なんか見覚えがある気がするんですけど、気のせいですか?」

 俺は驚いた。牧野と俺は同じ学年だったものの、同じクラスになったことはなく、ほとんど接点もなかった。牧野が俺のことを覚えているわけなどない、そう思っていた。

 振り返った俺に近づいた牧野は、体積も、存在感も他の人と違っていた。違う世界に生きる人間だ、そう思った。

「景、やめとけよ。あんなやつ」

「なんで?」

「あいつは、生きる世界が違うんだよ。俺たちとは、あんまりにも違う」

「そんなことないよ」

 景は言う。

「少なくとも今は、同じ学校にいて、同じ空気を吸ってるんだからさ」

 ――あいつには、お前の気持ちは絶対にわからないよ。

 俺は、その言葉は飲み込んだ。

「けい、を」

「――?」

 俺の言葉に怪訝な顔をする牧野。

「矢島景を、覚えてますか」

 俺は牧野の顔を見る。牧野は眉間に微かに皺を寄せてこちらを見つめていた。

「それ、は……」

「覚えてますか、矢島景のことを」

「あなたは――」

「俺のことはどうでもいい。矢島景を覚えてるかって聞いてるんですよ」

 牧野は黙った。その表情は、覚えている矢島景を思い出して苦い表情をしているというよりも――変な人に話しかけてしまって困ったな、という顔に見えた。

 その表情が、俺を苛立たせた。

 こいつだけは、絶対に景を忘れてはいけないのに。こいつが言いふらさなければ、景は死ななかったのだ。だから、こいつは。こいつにだけは。

「覚えてるかって聞いてんだよ!」

 俺は牧野に掴みかかった。厚い胸板、大きな体は、俺が掴みかかってもビクともしなかった。俺はぐいぐいと、牧野の服を引っ張った。

「忘れたなんて言わせない、お前は忘れちゃいけないんだ、景を、お前は忘れちゃいけない――だってお前が」

 景を殺したんだ。

 そう言おうと思った。でも、言えなかった。

 脳裏に、あの言葉が蘇る。

 ごめんね

 俺の目に涙が滲む。

 ――景を殺したのは、誰だ?


「鹿山さん?」

 牧野の胸ぐらを掴んでじっと睨みつけていると、そう声が聞こえた。

「ちょ、鹿山さん何してるんですか」

 慌てたように田邊が俺に近寄り、牧野を俺から引き剥がす。俺はほとんど抵抗しなかった。

「すいません、失礼しました」

 田邊は少しうわずった声で牧野に謝る。俺はじっとうなだれて、ひび割れたリノリウムの床を見つめていた。

「ああ、……いや、大丈夫だよ」

 牧野が言う。そしてその大きな足が、俺の視界から消えていく。

「鹿山さん、一体どうしたんですか」

 田邊が言う。その口調は、俺を責めるものというよりは、まるきり心配そうな声色で、俺は情けなくなってしまう。

「――なんでもない。悪かった」

 俺はそれだけ言って、売り場に出るための扉を開いた。

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