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高校卒業後、俺は逃げ出すように東京の大学に進学した。
知り合いの一人もいない、それなのに人ばかりやたらいる東京という街。サークルにも入らず、バイトもせず親の仕送りで生活する日々。文学部の学生はほとんどが真面目に講義なんて受けていないで、みんな遊びまわっているようだった。僕は履修表をびっしり埋めて、できる限り時間を講義で埋めた。講義で参考にと挙げられた文献はほとんど目を通した。別に勉強をしたかったわけでも、文学に目覚めたわけでもなかった。ただ、そうしないと自分を保っていられなかったのだ。
ある日、セクシャルマイノリティの学内サークルがあることを、大教室の講義中の前の学生の会話で知った。
行ってみようと思った。
俺は初めて講義をサボって、インターネットで調べたサークルの情報を元にサークル棟に向かった。
扉の前までたどり着いた。扉には、ピンク色の紙にマジックで『新入生大歓迎♡』と書かれていた。その部室は、表向き普通の部室のように見えたが、注意深く観察すると他の部室と少し違っていた。
そこには、ここが何のサークルなのかの掲示がなかった。他のサークルは、『ラクロス同好会』とか、『映画研究会』などという看板を誇らしげに出している。だけどここの部室は、扉にも、窓にもその掲示がない。
看板がないということが、俺にはとても大きなことに思えた。廊下に向き合った窓はブラインドか何かで塞がれている。ふと、俺の視線はその窓の下のアルミサッシに引き寄せられた。
そこには、ボールペンか何かで、消えそうなほど小さく
おかま
と書かれていた。
それだけ、そのたった三文字に、自分でも驚くほど動揺した。そんな、指で擦ったら消えそうなほどの小さな書き込みに、俺の心は揺さぶられた。俺は扉を見た。
『新入生大歓迎♡』
その文字が滲んで見えた。そしてその向こうに、部屋の中が見えた。
それは、暗い部屋の中、ぶらぶらと一人で揺れる景の首吊り死体だった。
この扉を開けたら、中で景が首を吊っている。
俺は、その場から逃げ出すように立ち去った。
「新しく入りましたタナベケイといいます。××大の三回生です」
懐かしさすら感じる母校の名前を、新しく入ってきたアルバイトは口にした。
シフトに入っていたスタッフが、それぞれ順番に自己紹介する。
ぼんやりそれを聞きながら、俺はその名前について考えていた。ケイ。どういう字を書くのだろう。
タナベの方を、盗み見るように伺う。彼は若く、溌剌としていた。ぱっと見、本なんて読まなそうにも見える。不意に、劣等感が刺激された。俺はいつの間にか随分歳をとってしまったのだと思い知る。アルバイトをずっとしているから、時間の経過を意識したことが少なかった。
「鹿山さん、次」
真野さんが俺に促した。
「鹿山淳太です、よろしく」
俺は簡単に、それだけ言った。
「かやま、さん」
確認するように田邊は言った。「はい」、そう答えた俺に、
「鹿に山って字ですか?」
そう確認してくる。そんなに難しい字でもないだろうに、なぜ俺にだけ聞くのだろう。
「そうですね」
俺は答え、胸元のネームプレートを田邊に示した。
「そう、ですか。ジュンタはどういう字ですか?」
今まで他の人の名前を聞いて、そんなことを聞いたりはしていなかったのになんなんだろう。そう思いながら、
「さんずいのアツシに、太いって字です」
せっかくだからと俺も聞いた。
「ケイって、どういう字ですか」
「あ、土が二つの圭、です……田邊のべは、難しい方の」
「あ、そうですか」
そんな風に話していると、女子高生のアルバイトの石田さんが「なにこの時間」と呆れ半分に言った。
ケイという名前だと聞いて、俺はなるべく田邊には関わらないでおこうと思った。漢字は違ったし、田邊には何の罪もないけれど、こればかりは嫌な予感で仕方ない。
何より多分、彼が眩しかったのだと思う。
だけどそうはいかなかった。俺は田邊の教育係に任命されてしまったのだ。必然的に、俺と田邊の接する時間は多くなった。
書店の仕事で一番厄介なのは、お客様からの――あの本どこにありますか、という類の問い合わせだった。田邊は本を読むのが好きらしく、問い合わせの多い本を、うろ覚えのような曖昧な条件でいくつか尋ねたところ、すべて正しいタイトルを答えることができた。また最近の主要な文学賞の受賞作品も、だいたい知っているようだった。頼もしいことだ。
ただ、そういった問い合わせ対応は問題なさそうなのだが、レジ打ちやブックカバーかけなどの単純な作業は、田邊は覚えが妙に悪かった。
「なんかすいません鹿山さん。今日もフォローしてもらっちゃって」
仕事後、俺と田邊は飲みに来ていた。田邊が今日、客の本にカバーをつけるときにページに折り目をつけてしまいクレームをつけられていたところを、俺がフォローした。そのお礼をしますと、半ば強引に飲み屋へと連れ出されたのだった。
居酒屋は混み合っていた。
「鹿山さんって、モテそうですよね」
俺たちはしばらく気ままに飲んだ。そして半ば酔っ払った田邊が、少し呂律のまわらない舌でそう言う。
「モテる? 俺が?」
「うん、鹿山さん、カッコいいから」
俺は思わず笑ってしまう。自分をカッコいいなんて言う人、今までいただろうか。
「何笑ってんですかぁ」
田邊の目は据わっている。
「いや、だってからかってるんだと思って」
「からかってないですよぉー……」
「だって、カッコいいなんて言われたことないよ」
「でも、鹿山さん彼女さんいるんでしょ。彼女さん言ってくれるでしょ」
「あ、あぁ、……うん」
「のろけだぁー」
「もう、酔っ払いすぎだよ田邊くん」
「あぁ、なんか……すいません……おれ、あんまおさけつよくなくて」
「じゃあなんでそんなに飲んじゃったのさ」
テーブルの上には、空になったジョッキが複数並んでいる。俺の手元にあるジョッキには、まだ半分残っていた。
「うーん、……なんだろう、……きんちょうしてるのかも」
「緊張? なんで?」
「いや、それは……その……」
田邊はそれきりテーブルに突っ伏して黙ってしまった。
「マジかよ」
彼はどうやら眠ってしまったようだった。
俺は重たい田邊を体を引きずってタクシーに載せ、荷物の中から学生証を取り出してそこに書かれた住所へ向かった。
田邊の家は、広いとは言えないアパートの一室だった。気が引けたが、全く起きる気配もないので仕方ない。俺は田邊のポケットから鍵を取り出して扉を開けた。
暗い部屋。
「うわ」
扉を開けると、部屋の一面がすべて本で埋まっていた。そこからこぼれでたように、部屋の床にも本が山をいくつか作っている。俺は田邊をベッドに寝かせた。電気はつけない。暗い部屋で、本たちは静まり返って黙って並んでいる。
「懐かしい。これ、読んだなぁ」
本棚の一番目立つ部分にある小説に、俺の目は吸い寄せられた。卒論を書くために何度も何度も読んだロシアの古典作家の小説がずらりと並んでいる。
就職先も決まらなかった俺は、自主留年すら諦めて、卒論の執筆に没頭した。担当教授には院への進学も勧められたが、俺はそれを考えなかった。
俺はあの時、燃え尽きたかったのだと思う。自分にとってすべてをそこに注ぎ込んで、そのまま灰になってしまいたかった。
今になってなぜそれが卒論だったのだろうと思う。ゼミの同級生たちはみんな、ほとんどがそれをめんどくさがって、ウィキペディアを丸写しして書いていた。
俺も、卒論なんて頑張ったところで何の意味もないことは分かっていた。だけどあのときは、没頭できる何かが必要だった。それが、たまたま卒論だったというだけだ。
「ん……」
寝かせたベッドの上で、田邊がみじろぎする。俺は慌てて、その部屋をあとにした。
「すいませんでした……」
翌日、田邊はバックヤードで俺に頭を下げた。
「いいよいいよ、気にしないで」
「本当にすいません、ほとんど覚えてないんですけど、家まで送ってもらっちゃった……んですよね? タクシー代とご飯代、これで足りますか?」
「いいよ、大丈夫だから」
「いや、ほんと、これだけは受け取ってくれないと」
そう言い、俺の手に一万円札をねじ込もうとする。俺はそれを突き返して言った。
「じゃあさ、今度ご飯奢ってよ。お酒は無しで」
田邊はそれを聞くと、少し驚いた顔をして、
「わかりました。今度、行きましょう」
そう言った。
俺は多分、それを守られない約束だと思っている。
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