離陸
数田朗
1
ごめんね
夜、家で一人でテレビを見ていると、
何が?
そう送ろうとiPhoneの画面の上で指を振る。そうしていると、急に妙な気持ち、不安な気持ちになった。指が送信を躊躇する。突然の景の言葉が、何か重大なメッセージに思えた。
ごめんね
緑色の吹き出しマークの中にそう表示された俺のiPhone4S。数ヶ月前に携帯電話から機種変更したばかりのそれは、随分メールの表示方法が変わっていた。
しばらくそれを、じっと見つめていた。
最初、深刻なメッセージに思えたそれも、ポップな吹き出しのせいでそうは思えなくなった。
だから、そんなのは気のせいに過ぎない、そう思い、送信マークをタップした。ボックスに入っていたメッセージが、まるで浮かび上がるように上に移動する。俺のメッセージは景に向かって放たれた、はずだった。
その時景はどうしていたのだろう。首に縄をかけているところだったのだろうか? それともいくつもあったというカッターナイフのためらい傷を作っているところだったのだろうか? いくつか準備していたという自殺の手段の中から、どれにするかを悩んでいるところだったのだろうか? それとも、あの瞬間、俺が『何が?』と送ったあの瞬間、まさに景は登った椅子を勢いよく後ろに蹴り倒し、首が縄に食い込んだのだろうか? 景の首が締まって、肺が機能を果たせなくなり、脳に酸素が届かず意識がなくなって、だらりと腕が垂れ下がって、慣性の法則にしたがってその体が少しだけ揺れている。そのどの段階で、俺のあのメッセージは景に届いたのだろう?
メールを送ったそのアプリには、まだ既読通知機能なんてものはついていなかったし、そもそも景が使っていたのはガラケーだったから、景があのメッセージを読んだのかはわからない。だけどきっと、景はあのメッセージを読んでいない。景は『ごめんね』と俺に送信し、携帯電話をそのままに命を絶ったのだ。そのとき景には、携帯電話を閉じる必要もなかったのだ。だってもう死んでしまうのだから。きっと景はそう考えたんだ。
俺は、あの時送信を躊躇した自分の指が許せない。それだけでなく、あのときすぐに電話をかけてやれなかった自分を許せない。漠然とした、しかし確実な不安に襲われながら、ただ少し遅れて一言返信しただけの自分が許せない。俺はあの時の自分の対応が、正しかったものだとどうしても思えなかった。
景は、クラスで腫れ物扱いを受けていた。同性の同級生に告白したことが広まって、よからぬ噂がまことしやかに囁かれるようになったのだ。いじめではないとみんなきっと口を揃えるだろう。景は別に、暴力を振われたわけでも、暴言を吐かれたわけでも、直接的ないやがらせをされたわけでもない。現に景の自殺後の学校の調査でも、『いじめの事実は確認できなかった』という報告がなされている。クソッたれ。本当に、クソッたれだ。
景の周りには、一枚の透明な膜があった。コンドームみたいな、0.1mmもない薄い薄い膜。彼らが作ったのはそれだけ、それだけだった。
そんなことで人は死なない。
みんな、そう思っていた。
翌日、担任教師が俺たちに景の死を告げた。俺は、景に苦痛を与えていたクラスメイトたちと一緒に、同時に、それを初めて知ったのだ。
それを聞いて、俺はあの違和感の答え合わせをした気持ちだった。
ごめんね
というメッセージの理由。なぜ景が俺にあんなことを言ったのか。
同時に、どうしてと思った。
どうして、そんな言葉だけで終わらせてしまうんだ。
呆然と教師を見つめる俺の耳に、啜り泣きの声が聞こえ始めた。
クラスメイトたちが泣いていた。こいつらは、何を泣いているのだろうとぼんやり思った。彼らはどうやら、ショックを受けているらしかった――ショック。何がショックなのだろう。あの膜を作ったのは、お前らじゃないか。あの息苦しいビニールの膜に景を閉じ込めたのは、お前らじゃないか。そして俺には、泣いている彼も彼女も、結局のところ自分の行為を本当に悔いているのではないのだと分かった。なぜならば、泣いている顔ぶれはどいつもこいつも、景が『空気を読むのがうまいやつら』だと評していた人間たちだったからだ。
「あいつらはさ、空気を読むことだけで生きてるんだよ」
「多分、自分が空気を読んでるって自覚もないんだ」
「ただ、条件反射みたいに行動してるだけ」
だから彼らはきっと、空気を読んでいるだけなのだ。
誰かが泣いている方が、今の空気がうまくまわるから。
誰も泣いていなかったら、不自然だから。
誰も泣いていなかったら、矢島くんがかわいそうだから――。
だから彼らは泣いているのだ。
俺は、自分の中に湧きあがった感情を処理しきれないでいた。美術の授業のあとの筆を洗った液体みたいに濁った感情。クラスメイトの啜り泣きを聞くたびに、どんどん水が汚れていく。ふざけていると思った。
だけど何より、何よりも俺が許せないのは俺自身だ。
おそらく――いや間違いなく、クラスメイトの中で景の一番近くにいたのは俺だった。景が密かに想いを寄せ、告白した果てに暴露されたあのクソ野球部の男なんかよりも、俺が、俺が景の一番近くにいたんだ。
景の自殺を受け、その日の通常の授業は中止になった。その代わり行われた特別授業で話し合われたのは、『いのちの大切さ』だった。クラスのメンバーたちは担任に促され、一人一人意見を述べていた。だが、クラスメイトの誰も、景のゲイ疑惑については触れなかった。あの、周到に作り出された膜についても触れなかった。誰かが隠匿を指示した訳でも、命令した訳でもないのに、誰も一言も触れなかった。俺はそれを聞きながら、心の水を真っ黒に染めていた。自分の番が来る直前に、その感情の名前が怒りなのだと気づいた。
そうだ、俺は怒っている。
指名は出席番号順。俺の前の野球部の大野が、気まずそうに何かを話している。俺は自分が怒っているのだと気づいてから、その感情にガソリンが絶え間なく注がれているのがわかった。燃え続けた俺は爆発寸前だった。
「じゃあ、次――鹿山」
無能な担任が俺を指名する。クラスメイトの誰も、俺と景の関係を知らない。俺と景が親友だったことを、誰も知らない。俺と景は、秘密を分かち合っていた。互いにゲイとして、隠れるように生きていた。景と俺は会う時は絶対に地元では合わなかったし、教室で話すことも一切なかった。どちらが決めたでもなく、俺たちはそうしていた。
俺たちは密かに、一緒にこの世界を生き抜くために同盟を組んでいたんだ。
だから、ここにいる誰も、俺がこのあと何を言おうとしているのか知らない。
――いのちの大切さだって? 自殺はいけないことだって?
俺は決意を込めて立ち上がる。俺がすべてをここでぶち撒けて、全てをひっくり返してやる。このクソみたいな茶番を終わらせてやる。そう思って立ち上がった。思いの外椅子が地面を擦る音が大きく鳴って、クラスメイトたちが驚いた顔でこちらを見た。
「俺は――」
クラスメイトたちが俺を見た。その視線、澱んだ目つき、鼻をすする音。沈澱し切った空気が、俺の体を取り囲んだ。急に、体の周りがねばねばして、自由に動くことができないみたいだった。喉が詰まりそうだった。息が苦しい。校庭から他のクラスが運動する笛の間抜けなリズムが、ピッピッピと聞こえていた。
「俺、は……」
唇がふるえる。
言え、言うんだ。全部言ってしまえ!
――。
「鹿山くん?」
真野さんが、俺に話しかける。
「どうかした?」
手に持っていた本が、平積みされた本の山の上に落ちていた。床に落ちなくて良かったと思う。
「ぼーっとして、どうしたの」
真野さんは、俺の落とした本を拾った。髪の毛を後ろで縛っていて、綺麗な形の額が露わになっている。その額を近づけるように俺の方に顔を寄せてきた。
「いえ、大丈夫、です」
本を真野さんから受け取る。
「じゃあ、それ、面陳しといてね」
彼女はそう言い残してコールが流れているレジの応援へと向かった。俺は手元の本を見る。並べようとした新刊には、海辺の、グラデーションの空の下二人の男性がサンダルを手に持って波を蹴り合うイラストが描かれている。帯に真っ赤なゴシック体で『映画化決定! この夏もっとも感動するラブ・ストーリー』と書かれていた。裏表紙には、
あの夏、ぼくらは確かに愛しあった――。幼い頃のある事件がきっかけで心を閉ざした景、そしてスランプ中のフォトグラファーの充。季節外れの湘南の海で偶然出会った二人は、撮る/撮られることでお互いの心を少しずつ解放していく……。
とあらすじが書かれていた。
俺はそのあらすじの名前を、指でなぞった。景。唾液を飲み込む音が、耳の奥の方に響いた。
最近、こういうジャンルの映像化・メディアミックスが盛んだ。それは、LGBTと呼ばれる人々が、血の滲むような努力で自らの権利を勝ち取ってきたことと、たぶん無関係ではない。だけども冷めている俺は同時に、これはきっとただ気付いただけなのだとも思う。そう、あいつらは気付いたのだ――同性愛は金になる、と。
同性愛を綺麗にパッケージングし、売り出し中の若手イケメン俳優二人を絡ませれば、非日常の世界を覗き見ることのできるちょっぴり刺激的な作品の完成だ。常識を揺るがさないように調整された、不満のガス抜きをするみたいな作品たち。出演した俳優はLGBTに理解のあるアピールもできる。誰も損をしない仕組みだった。
だけどそこには男同士の性欲の生々しい獣みたいな汗のにおいや、情欲そのものの精液のにおいみたいな、むせ返るようなものは何も存在しない。同性愛者を取り巻いている、さまざまな悪意も存在しない。まるで無菌室で育てた綺麗な野菜のように、美しいかたちをしたものだけが残される。いびつなものはどこかに捨て去られてしまうのだ。
俺は、しばらくの間じっとその本を見つめていた。
商品を乱暴に扱うわけにもいかず、真野さんの指示通り、俺はその本を一番目立つところに陳列した。帯の後ろに印刷された、映画に主演する若手俳優のさわやかな笑顔と、一言添えられたコメント――『人を愛することはこんなにも尊い。それをぜひ知ってほしいです』。
――なんだよ、それ。
「ありがとう鹿山くん」
新刊の配置が終わった俺に、レジから出てきた真野さんが話しかけてくる。
「文庫の新刊の配置は、さっき私がやっておいたから」
「あ、ありがとうございます」
真野さんは少し何かを考えた後、
「ねえ、もしよければ、今日終わったらご飯でも食べに行かない? 鹿山くん、早上がりだったよね? 私もなんだ」
そう言った。
「え」
「なんか元気ないし、私でよければ話聞くよ。どう?」
真野さんは笑った。俺は、
「すいません、今日は夜ちょっと予定があって……」
「あ、そっか。そうだよね、ごめんごめん」
「こちらこそ、誘ってもらったのにすいません」
ときどき、真野さんは俺に気があるのかもしれないと思う。真野さんと俺は年齢が近いというのもあるし、担当の売り場も一緒なので接する機会が多い。
いつもそう思うたびに、馬鹿な妄想だと思う。新卒で社員としてこの本屋に入社し、売り場の企画などもしてばりばり働いている真野さんが、大学を卒業はしたもののだらだらとバイトを続けている俺のことを意識する訳もない。だけど、何かあったら面倒だから、俺は職場には恋人がいると嘘をついている。もちろん、女の恋人だ。忘年会などで、彼女の写真を見せてよ、と言ってくる人もいるが、彼女があんまり撮られるのが好きじゃなくて、と言って誤魔化している。
仕事が終わり、真野さんに申し訳なく思いながら一人で自宅近くの中華料理屋に入る。
テレビでは、日本の映画作品が世界的な賞を受賞したというニュースを取り上げていた。俺は席につき、いつものように五目ラーメンを注文する。おてふきで手を拭っていると、監督のインタビューが始まった。iPhoneを取り出して画面をつける。通知は何も届いていなかった。
テレビをふと見上げると、最新型のiPhoneの広告が写っている。手元のそれを見ると、もうしばらく買い替えていないことに気づいた。
その視線の先で、CMがあけ、ニュースがスポーツコーナーに変わった。画面に大きく映し出されたその男を見て、俺はうっと思わず呻いた。
「お待たせー、五目ラーメン一丁」
そのとき店員のおばさんの大きな体が、テレビをちょうど覆い隠した。
俺は、精一杯テレビに意識を向けないようにした。五目ラーメンの濃厚なにおい。割り箸を割り、俺はなるべくわざと大きな音を立てて麺を啜って、くちゃくちゃ音を立てて咀嚼する。ニュースを聞かないように。耳に入れないように。それでも、断片的な情報が耳に入り込んでくる。
牧野選手はFAを行使し――手を挙げたのは――彼は今後新しい球団の一員として――
それがどこの球団なのか、視線をおろしたコップに映った橙色の光でわかった。彼はついに、そこまで登りつめたのだ。
吐きそうになるのをなんとか抑えながら、俺は五目ラーメンをかきこんだ。スポーツニュースは終わり、天気のコーナーに変わる。俺は雨マークの並ぶ日本地図をぼんやり見つめた。
テレビから視線を下ろすと、カウンター席に座るおっさんが広げるスポーツ新聞の記事が目に入った。
『牧野慎平 巨人軍へ電撃移籍』
なあ景。
俺は――いや、俺たちは負けたんだ。
牧野慎平。
それは、矢島景が告白した男の名前だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます