第8章「心の虹」
それから一ヶ月が過ぎた。
六月の爽やかな風が、
教室の窓から入り込んでいた。
私は窓際の席で、
光の角度を観察していた。
でも今は、以前のように数値だけを
記録するのではなく、
その光がもたらす感覚も一緒に書き留めていた。
「朝の光、斜めに差し込む。
温かく、希望のような色」
デバイスは今日も左手首につけていた。
実験は継続中だが以前ほど
頻繁に画面を確認することはなくなっていた。
自分の感情を自分自身で
認識できるようになってきたからだ。
「おはよう、瑞希」
陽介が笑顔で近づいてきた。
一ヶ月前までは「水野さん」と
呼んでいたのに今では自然に
「瑞希」と呼んでくれる。
その変化が、不思議と嬉しかった。
「おはよう、陽介」
私も自然に返事ができるようになっていた。
デバイスには「穏やかな喜び」の
波が表示されていた。
「今日の放課後、中村教授から
最終報告があるんだって」陽介が言った。
「メール来てた?」
「ええ」
実験開始から一ヶ月。
今日で一区切りということになっていた。
「どんな結果が出るか楽しみだね」
「ええ」
凛が教室に入ってきて、私たちに近づいた。
「おはよう、二人とも」
「おはよう」
私たちは同時に答えた。
凛は意味ありげに微笑んだ。
「相変わらず仲良しね」
この一ヶ月で、私と陽介の
関係は少しずつ変わっていった。
学校では「少し違う普通」を保っていたが、
放課後や週末には二人で出かけることも増えた。
映画を見に行ったり、図書館で一緒に勉強したり
時には青葉の森を散歩したり。
そして何より、私の中の感情が
日に日に豊かになっていくのを感じていた。
「今日で実験終わっちゃうね」凛が言った。
「デバイス、返すの?」
「わからない」私は正直に答えた。
「教授がどう言うか」
「寂しくない?」陽介が尋ねた。
「デバイスがなくなるの」
私は少し考えてから答えた。
「最初は頼っていたけど、今は…自分で
感じられるようになってきた気がする」
「それってすごいことだよ」
陽介が嬉しそうに言った。
授業が始まり私たちは席に着いた。
窓の外では雲が流れていく。
以前の私なら、その動きを冷静に
観察するだけだったが、今は雲の形や
動きに物語を見出すようになっていた。
あの雲は走る馬のよう、
あの雲は大きな船のよう…。
想像力も、感情と共に育まれていくのだろうか。
﹍﹍
放課後、私たちは
青葉大学の研究室へ向かった。凛も一緒だ。
「緊張する?」陽介が私に尋ねた。
「少し」正直に答えた。
「でも、楽しみでもある」
「複雑な感情だね」陽介が微笑んだ。
「それも成長の証だよ」
研究室に着くと中村教授が待っていた。
「来てくれましたね」
教授は私たちを迎え入れた。
「今日は最終報告です」
大きなモニターには、私と陽介の
一ヶ月分の感情グラフが表示されていた。
長期的な変化が一目でわかるグラフだ。
「水野さんのグラフを見てください」
教授は指し示した。
「最初はほとんど平坦だったグラフが、
一ヶ月でこれほど豊かになりました」
確かに、グラフは日を追うごとに
波が大きくなり、色も増えていた。
特に最近のデータは、陽介のグラフと
ほとんど変わらないほど豊かになっていた。
「これは驚異的な変化です」
教授は熱心に説明した。
「感情の認識能力と表現能力が飛躍的に
向上しています。特に対人関係における
感情の複雑さが顕著です」
陽介のグラフも変化していた。
もともと豊かだった感情の波が、
さらに深みを増していた。
「神谷くんのグラフにも変化が見られます」
教授は続けた。
「感情の種類はあまり増えていませんが、
各感情の深度が増しています。特に
『共感』『思いやり』『愛情』の感情が顕著です」
愛情。その言葉に、私の胸が少し熱くなった。
デバイスには「温かさ」の波が大きく表示された。
「しかし、最も興味深いのはこの部分です」
教授はグラフの特定の部分を指した。
「ここで両者のグラフに、
AIが認識できない波が現れています」
「前にも言ってましたよね」陽介が言った。
「数値化できない何か…って」
「その通りです」教授は頷いた。
「そして、その『数値化できない何か』が、
この一ヶ月でさらに増えているのです」
私はグラフを見つめた。
確かに、不思議な波形が所々に現れていた。
特に陽介と二人きりで
過ごした時間帯に多く見られる。
「これは何を意味するのでしょう?」
私は静かに尋ねた。
「それこそが、この研究の最大の
発見かもしれません」教授の目が輝いていた。
「人間の感情には、常に数値化できない部分、
言語化できない部分があるのです。それは特に
深い人間関係の中で顕著に現れます」
深い人間関係。
私と陽介の関係は、
確かにこの一ヶ月で深まっていた。
「では、実験の結論は?」凛が尋ねた。
「結論は二つあります」
教授は真剣な表情で言った。
「一つは感情は認識し、表現することで
育まれるということ。水野さんの
変化がそれを証明しています」
私は静かに頷いた。
「もう一つは」教授は続けた。
「感情は完全に数値化できるものではない
ということ。常に数値を超える
何かが存在するのです」
数値を超える何か…。
その言葉が不思議と心に響いた。
「では、この実験はここで終了です」
教授は言った。
「デバイスは返していただきますが、
データは今後の研究のために使わせていただきます」
私はデバイスを外し教授に手渡した。
一ヶ月間、常に身につけていたものが
なくなると、少し寂しい気もした。
でも同時に、解放された感覚もあった。
「水野さん、神谷くん」
教授が真剣な表情で言った。
「二人のデータは感情研究に大きな貢献を
しました。特に水野さんの変化は、
私の研究キャリアの中で最も印象的なものです」
「ありがとうございます」私は静かに答えた。
「最後に一つ質問があります」
教授は私を見つめた。
「この一ヶ月を経て、水野さんは
自分の感情についてどう思いますか?」
私は少し考えてから答えた。
「最初は…自分には感情がないと思っていました」
「そして…?」
「でも今は、感情はずっとあったのだと
思います。ただ、眠っていただけ」
「なぜ眠っていたと思いますか?」
難しい質問だった。
でも、この一ヶ月で少しずつ
理解できるようになってきたことがあった。
「たぶん…怖かったからだと思います」
「怖かった?」
「ええ。感情を持つことは傷つくことでもある。
だから、無意識に感情を
閉じ込めていたのかもしれません」
教授は静かに頷いた。
「鋭い洞察です。感情を持つことは、
確かに傷つくリスクを伴います。
しかし同時に、それは生きることの
本質でもあるのです」
生きることの本質。その言葉が胸に響いた。
「そして今は?」教授が尋ねた。
「感情を持つことをどう思いますか?」
私は陽介を見てから答えた。
「怖いこともあります。でも、
それ以上に…豊かなことだと思います」
陽介の表情が柔らかくなった。
「素晴らしい」教授は満足そうに言った。
「それが、この実験の最も重要な成果です」
研究室を出た後、
私たち三人は夕暮れの中を歩いた。
「デバイスがなくなってどう?」凛が尋ねた。
「少し寂しい」正直に答えた。
「でも、自分の力で感情を
感じられるようになりたい」
「瑞希は、もうできてると思うよ」
陽介が優しく言った。
駅前で凛と別れ、陽介と二人になった。
「どこか行く?」陽介が尋ねた。
「まだ時間あるし」
「青葉の森に行きたい」
「森?」
「ええ。あそこで初めて感情が動いたから」
陽介は嬉しそうに頷いた。
青葉の森に着くと、夕暮れの光が
木々の間から差し込んでいた。
私たちは、あの日雨宿りした東屋まで歩いた。
「あれから一ヶ月か」陽介が懐かしそうに言った。
「瑞希、本当に変わったね」
「そう思う?」
「うん、絶対」陽介は確信を持って言った。
「表情も、話し方も全然違う」
私は少し考えてから言った。
「でも、本質は変わってないと思う。
あなたが言ったように、隠れていた
部分が見えるようになっただけ」
陽介は驚いたように私を見た。
そして、優しく微笑んだ。
「そうだね。瑞希は瑞希のまま。ただ、
もっと瑞希らしくなった」
瑞希らしく。その言葉が心地よかった。
東屋に座り、私たちは森の風景を眺めていた。
夕日が木々の間から差し込み、
美しい光景を作り出していた。
「あのさ」陽介が少し緊張した様子で言った。
「さっき教授が言ってた、
数値化できない感情のこと」
「ええ」
「俺、それが何かわかる気がするんだ」
「何?」
陽介は真剣な表情で私を見つめた。
「好きという感情」
好き。その言葉に胸が熱くなった。
「好きって、数値じゃ表せないよね」
陽介は続けた。
「強さは測れるかもしれないけど質は違う。
一人一人の『好き』は全部違うから」
私は静かに頷いた。
「瑞希」陽介が真剣な表情で言った。
「俺、瑞希のこと好きだよ。それは
一ヶ月前も言ったけど今はもっと強く思ってる」
私は彼の目をまっすぐ見つめた。
デバイスがなくても、自分の感情がわかる。
胸の中で広がる温かさ、ときめき、
安心感、そして言葉にできない何か。
「私も」静かに答えた。「陽介のこと好き」
一ヶ月前なら、こんな風に自分の感情を
素直に表現することはできなかっただろう。
陽介の表情が明るくなり、
彼はゆっくりと私の手を取った。
温かい。その感触が、全身に広がっていく。
「これからも一緒に、
いろんな感情を探していこう」
陽介が優しく言った。
「ええ」
その瞬間、森の向こうに小さな虹が現れた。
夕日と残った雨粒が作り出した、
幻のような虹だった。
「見て、虹」
私たちは立ち上がり、その光景を見つめた。
七色の帯が夕暮れの森に浮かんでいる。
「きれい…」思わず言葉が漏れた。
胸が締め付けられるような感覚。
でも今はそれが何の感情なのかわかる。
感動。美しさへの畏敬。
そして、この瞬間を大切な人と共有できる喜び。
「心の中にもこんな風に
色んな感情があるんだね」
陽介が静かに言った。
「心の虹…。七色の虹みたいに」
心の虹。その表現が、不思議と的確に思えた。
「ええ」
私たちは手を繋いだまま、
虹が消えるまでその場に立っていた。
言葉は必要なかった。
ただこの瞬間を、この感情を
共有するだけで十分だった。
虹が消えた後も、その色彩は
私の心に残り続けていた。
数値化できない、言葉にできない
でも確かにそこにある、心の虹。
私はもうそれを感じることができる。
そして、これからもっと多くの色を
見つけていくのだろう。
陽介と一緒に。
「帰ろうか」陽介が優しく言った。
「ええ」
私たちは手を繋いだまま森を後にした。
夕暮れの空がオレンジから
紫へと色を変えていく。
その美しい光景にまた胸が
締め付けられるような感覚を覚えた。
でも今は、その感覚を恐れることはない。
それは私の一部、私の心の色なのだから。
数値化できない心の中で、
静かに虹が輝いていた。
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