エピローグ「数値の向こう側へ」

一年後の春。


桜の花びらが、青葉高校の

校庭に舞い落ちていた。


卒業式を終えた私たちは、

制服姿で校門の前に立っていた。


「あっという間だったね」

陽介が桜を見上げながら言った。


「ええ」


この一年で私はさらに変わった。


感情を認識し、表現することが

自然にできるようになった。


笑顔も、時には涙も見せられるようになった。


もちろん以前の静かな自分も残っている。


でも今はそれも含めて

私自身だと受け入れられるようになった。


「瑞希」凛が近づいてきた。


「最後に三人で写真撮ろう」


私たちは桜の木の下に立ち、

凛のお母さんにスマホを渡した。


「はい、笑って!」


私は自然に微笑んだ。


もう笑顔を作ることに苦労はしない。


「撮れたわよ」


凛のお母さんがスマホを返してくれた。

画面には、桜の下で笑う三人の姿があった。


私の表情は一年前とは明らかに違っていた。

柔らかく、温かく生き生きとしている。


「いい写真」凛が満足そうに言った。


「送って」陽介が言った。


「私にも」


凛は写真を二人に送ってくれた。


「あのさ」凛が少し寂しそうに言った。

「大学、別々になっちゃうね」


私は青葉大学の心理学部に

進学することになっていた。


中村教授の研究に興味を持ち、

感情心理学を学びたいと思ったのだ。


陽介は隣町の工学部、凛は文学部に進む。


「でも、近いから」陽介が明るく言った。

「週末は会えるよ」


「そうだね」凛も笑顔を取り戻した。


私たちは校門を出て、

最後に校舎を振り返った。


「ここで出会えて良かった」私は静かに言った。


二人は少し驚いたように私を見た。

そして優しく微笑んだ。


「うん、本当に」


私たちは桜の花びらが舞う中、

ゆっくりと歩き始めた。


﹍﹍


その夜、私は部屋で荷物の整理をしていた。

大学の準備だ。


デスクの引き出しから、

一冊の手帳が出てきた。


一年前、感情を数値化していた頃の手帳。


開いてみると、最初のページには

「5月8日朝の光の入射角、昨日より0.5度減少」

と書かれていた。


懐かしさと共に、少し照れくささも感じた。

こんな風に世界を見ていたのか。

でも、それも私だ…。


手帳をめくると、

途中から記録の仕方が変わっていた。


数値だけでなく感情や印象も書き始めていた。


「朝の光、温かく希望のような色」

「雨上がりの森、清々しい空気、

心が洗われる感覚…。」


そして最後のページにはこう書かれていた。


「感情は数値化できない。

それは心の虹のように、無限の色を持つ。」


私はその言葉を読み返し、静かに微笑んだ。


スマホが鳴り、

陽介からのメッセージだった。


「明日、中村教授に会いに行く?

新しい研究が始まるらしいよ」


私はすぐに返信した。


「行きたい。どんな研究?」


「AIと感情の関係について。でも今度は、

AIに感情を教える研究だって」


AIに感情を教える。興味深いテーマだ。


「楽しみ」


返信を送った後、窓の外を見た。

満月が空に浮かんでいた。


その美しさに、また胸が

締め付けられるような感覚を覚えた。


でも今は、その感覚に

名前をつけることができる。


感動。畏敬。

そして、明日への期待。


一年前、私は自分には

感情がないと思っていた。


でも実際は、感情はずっとそこにあった。

ただ、気づくことができなかっただけ。


そして今、私の中には豊かな感情が流れている。


数値化できるものも、

できないものも含めて。


私は静かに深呼吸した。

明日からまた新しい日々が始まる。


新しい場所で、新しい人々と出会い

新しい感情を発見していく。


その思いに、名前のない温かな感情が、

胸の中で静かに広がっていった。


数値の向こう側へ。心の虹を追いかけて。


私の旅は、まだ始まったばかりだった。


(終)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

数値化されない心 tk (ティーケー) @tk_rock

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ