第7章「数値を超えて」
月曜日の朝、
私はいつもより少し早く目覚めた。
窓から差し込む光が、
昨日とは違って見える。
同じ光なのに、何かが変わった気がした。
デバイスには「期待」の波が表示されていた。
今日、神谷君に会える。
その思いが朝から私の心を動かしていた。
制服に着替え、
いつもより少し丁寧に髪を整えた。
鏡の中の自分を見て、
わずかに表情が変わったことに気づいた。
目が少し輝いているように見える。
「おはよう」
朝食の席で、母に挨拶した。
いつもより少し声の
トーンが高かったかもしれない。
「おはよう、瑞希」母は私をじっと見た。
「なんだか、今日は違うわね」
「そう?」
「ええ、表情が柔らかいというか…」
母は言葉を探すように少し考えた。
「生き生きしてるというか」
生き生き。その言葉が新鮮だった。
私が「生き生き」しているなんて、
今まで誰も言わなかった。
「そうかもしれない」
素直に答えた。
母の表情に小さな驚きと喜びが浮かんだ。
学校への道すがら私は空を見上げた。
青い空に白い雲。
いつもの風景なのに、
今日は特別に美しく感じられた。
デバイスには「穏やかな喜び」の
波が表示されていた。
教室に入ると、すでに
何人かのクラスメイトがいた。
その中に神谷君の姿はなかった。
少し残念に思った瞬間、デバイスが
「期待の低下」という波を表示した。
自分の感情がこれほど正確に
捉えられることにまだ慣れない。
「おはよう、瑞希」
振り返ると、月島凛が立っていた。
「おはよう」
「昨日、どうだった?」凛が小声で尋ねた。
彼女は神谷との「デート」の
ことを知っているのだ。
「楽しかった」
素直に答えた。
凛の目が少し大きくなった。
「本当に?詳しく聞かせて」
その時、教室のドアが開き、
神谷君が入ってきた。
私たちの視線が合った瞬間
デバイスが大きく振動した。
「動揺」「期待」「温かさ」の波が表示される。
「おはよう」
神谷君が私たちに近づいてきた。
いつもと同じ挨拶なのに、
何か違って聞こえる。
「おはよう」
私の声も少し違っていたかもしれない。
凛は私と神谷君を交互に見て
意味ありげに微笑んだ。
「二人とも、なんか違うね」
神谷君は少し照れたように髪をかき上げた。
「そう…かな?」
「うん、絶対」
凛は確信に満ちた声で言った。
「何かあったでしょ?」
「ただカフェに行っただけだよ」神谷が言った。
「ふーん」凛は信じていないような表情をした。
チャイムが鳴り授業が始まった。
私は窓際の席から、
時々神谷君の後ろ姿を見ていた。
昨日までとは違う視線で。
デバイスには「温かな関心」
という波が表示されていた。
授業中、神谷君が一度振り返り
小さく微笑んだ。
その瞬間デバイスが振動し
「ときめき」という新しい波が表示された。
ときめき…。その感情の名前を初めて知った。
昼休み、私たちは屋上で
昼食を取ることにした。
私と神谷君と凛の三人で。
「で、結局何があったの?」凛が率直に尋ねた。
神谷君と私は顔を見合わせた。
「特に何も…」神谷君が言った。
「ただ話しただけ」私も付け加えた。
「嘘」凛はすぐに言った。
「二人とも、目が違う」
目が違う…。
田中さんも同じことを言っていた。
私には理解できなかったが、
どうやら他人には見えるものがあるらしい。
「まあ、いいわ」凛はため息をついた。
「言いたくないなら無理に聞かないから」
その時、私のスマホが鳴った。
中村教授からのメールだった。
「教授からメール」
「何て?」神谷君が興味深そうに尋ねた。
「今日の放課後、研究室に来てほしいって」
「俺にも同じメール来てる」
神谷君がスマホを確認した。
「何かあったのかな」
「データの分析結果かもしれないね」凛が言った。
「凛も一緒に来る?」私は思わず尋ねた。
「え?いいの?」
「ええ」
「じゃあ、行ってみようかな」
凛は少し興味深そうに言った。
放課後、私たち三人は
青葉大学の研究室へ向かった。
「緊張する?」神谷君が私に尋ねた。
「少し」正直に答えた。
「結果がどうなるか気になる」
「水野さん、本当に変わったね」
神谷君が嬉しそうに言った。
「前なら『わからない』って言ってたと思う」
確かにその通りだった。
私は自分の変化に、
少し誇らしさを感じていた。
研究室に着くと中村教授が待っていた。
「来てくれましたね」
教授は私たちを迎え入れた。
「月島さんも一緒ですか。
いいですね、より多様なデータが得られます」
教授は大きなモニターを指し示した。
そこには私と神谷君の
二週間分の感情グラフが表示されていた。
「水野さんのグラフを見てください」
教授は熱心に説明し始めた。
「最初はほとんど平坦だったグラフが、
日を追うごとに波が大きくなり、色も
増えています。特に昨日のデータは驚異的です」
確かに、昨日のグラフは
色とりどりの波で溢れていた。
カフェでの会話、神谷君の告白、
帰り道の静かな幸福感…。
それらが全て数値化され可視化されていた。
「これは私の仮説を裏付けるデータです」
教授は続けた。
「感情は使えば使うほど強くなり、
認識すればするほど豊かになる。
そして最も重要なのは、他者との
関わりの中で育まれるということです」
神谷のグラフも変化していた。
以前から豊かだった感情の波が、
さらに複雑になり、特に私との
交流の時間帯に大きな波が現れていた。
「二人の感情グラフには、
明らかな相互作用が見られます」
教授は指摘した。
「特に昨日のデータでは、
二人の波が共鳴するように動いています」
共鳴…。その言葉が胸に響いた。
私と神谷の感情が、
互いに影響し合っているのだ。
「しかし、最も興味深いのはこの部分です」
教授はグラフの特定の部分を指した。
「ここで水野さんの感情グラフに、
AIが認識できない波が現れています」
「認識できない?」私は驚いて尋ねた。
「ええ、AIのアルゴリズムでは分類できない
感情パターンです」教授は熱心に説明した。
「これは非常に複雑で繊細な感情の
現れかもしれません。あるいは…」
教授は少し言葉を選ぶように間を置いた。
「あるいは…数値化できない何かかもしれません」
数値化できない何か。
その言葉が不思議と心に響いた。
「それは…何なのでしょうか?」
私は静かに尋ねた。
「それこそがこの研究の核心です」
教授の目が輝いていた。
「人間の感情は完全に数値化できるのか。
あるいは常に数値を超える何かが存在するのか」
神谷君が真剣な表情で言った。
「俺は思うんだ。感情って完全に
数値化できるものじゃないって」
「なぜそう思うの?」凛が尋ねた。
「だって」
神谷君は少し言葉を探すように考えた。
「同じ『嬉しい』でも状況によって全然違うし。
数値が同じでも、質が違うというか…」
「興味深い視点です」教授は頷いた。
「確かに、感情には質的な側面があります。
それを完全に数値化することは、
現在の技術では難しいかもしれません」
私はデバイスのグラフを見つめていた。
確かに、そこには様々な波が表示されている。
でも、私が実際に感じている感情は、
それだけではない気がした。
もっと複雑でもっと繊細で、
もっと…言葉にできないものがある。
「水野さんはどう思いますか?」教授が尋ねた。
「自分の感情が数値化されるのを見て、
どう感じましたか?」
私は少し考えてから答えた。
「最初は…驚いた。
自分の中に感情があることがわかって」
「そして?」
「でも、次第に…数値だけでは
表せないものがあると感じるようになった」
「どんなものですか?」
言葉にするのは難しかった。
「例えば…」私は言葉を探した。
「神谷君と一緒にいるときの感情。
デバイスには『温かさ』『期待』『ときめき』と
表示されるけど、実際に感じているのは
もっと…複雑で一つの言葉では表せないもの」
神谷君の表情が柔らかくなった。
「それが『好き』という感情かもしれないね」
彼は静かに言った。
好き。その言葉に胸が少し熱くなった。
デバイスには複雑な波が表示されたが、
それでも私の感じている感情の
全てを表しているとは思えなかった。
「素晴らしい洞察です」教授は熱心に言った。
「これこそが私の研究の核心なのです。
感情AIは人間の感情を理解する助けになりますが
完全に置き換えることはできない。
常に数値化できない部分、言語化できない
部分が残るのです」
私は窓の外を見た。
夕暮れの空が美しく色づき始めていた。
その光景にまた胸が締め付けられるような
感覚を覚えた。
「美しい…」
思わず言葉が漏れた。
デバイスには「感動」の波が表示されたが、
それだけでは足りない気がした。
「水野さん、これからどうしますか?」
教授が尋ねた。
「実験はもう少し続けたいのですが」
私は少し考えてから答えた。
「続けたい」
「本当ですか?」
「ええ。でも…」私は言葉を選んだ。
「デバイスに頼りすぎないようにしたい。
自分で感情を感じ、理解する練習をしたい」
教授は満足そうに頷いた。
「それが最も重要なことです。デバイスは
あくまで補助ツールです。最終的には
自分自身で感情を認識し、
表現できるようになることが目標です」
研究室を出た後
私たち三人は夕暮れの中を歩いた。
「瑞希すごいね」凛が言った。
「こんなに変わるなんて」
「変わった?」
「うん、絶対」凛は確信を持って言った。
「表情も、話し方も、全然違う」
「俺もそう思う」神谷君が言った。
「でも、水野さんの本質は変わってないと
思うんだ。ただ、隠れていた部分が
見えるようになっただけ」
隠れていた部分。
それは的確な表現かもしれなかった。
私の感情は消えていたわけではなく、
ただ眠っていただけなのだ。
「これからどうする?」凛が尋ねた。
「デバイスのこと」
「使い続けるけど」私は答えた。
「依存はしない。
自分で感じることを大切にしたい」
「それがいいと思う」神谷君が優しく言った。
私たちは駅前で凛と別れ、
神谷君と二人になった。
「送るよ」神谷君が言った。
「ありがとう」
並んで歩きながら、神谷君が静かに言った。
「水野さん、昨日のこと、考えた?」
昨日のこと…。カフェでの会話、
神谷君の告白、私の曖昧な返事。
「ええ」
「どう思った?」
私は少し考えてから答えた。
「あなたのことが…好き、かもしれない」
デバイスが大きく振動した。
複雑な波が表示されている。
「でも、まだ完全には理解できていない」
正直に付け加えた。
「この感情が何なのか」
神谷君は優しく微笑んだ。
「大丈夫、急がなくていいよ。
一緒に探していこう」
一緒に。その言葉が心地よかった。
「ただ、一つだけ」
神谷が少し照れたように言った。
「水野さんのことを、瑞希って呼んでもいい?」
瑞希。私の名前。
それを神谷君の口から聞くのは初めてだった。
「ええ」
「じゃあ、俺のことも陽介って呼んで」
「陽介…」
その名前を初めて口にした瞬間、
デバイスが大きく振動した。
「特別な親密感」という新しい波が表示された。
「瑞希」陽介が静かに言った。
「これからも一緒に感情を探していこう」
「ええ」
家の前まで来ると、
陽介が少し緊張した様子で言った。
「明日も…一緒に登校していい?」
「ええ」
すぐに答えた。
デバイスには「期待」の波が表示されていた。
「じゃあ、また明日」
陽介は手を振って去っていった。
私は彼の背中が見えなくなるまで見送った。
家に入ると、母が優しく微笑んだ。
「どうだった?」
「いろいろわかった」
「どんなこと?」
「感情は…数値だけでは表せないということ」
母は少し驚いたように私を見た。
そして、静かに頷いた。
「そうね。だからこそ、
美しいのかもしれないわね」
美しい。その言葉が胸に響いた。
部屋に戻り私はデバイスを外した。
しばらくは、デバイスなしで
自分の感情と向き合ってみたかった。
窓の外を見ると、夜空に星が輝き始めていた。
その光景にまた胸が
締め付けられるような感覚を覚えた。
でも今は、その感覚に名前を
つけなくてもいいと思った。
ただ、感じるだけでいい…
私は静かに深呼吸した。
明日からまた新しい日々が始まる。
そして、私の中の感情は
これからも少しずつ育っていくのだろう。
数値化できる部分も、
できない部分も含めて。
その思いに、名前のない温かな感情が
胸の中で静かに広がっていった。
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